宮子あずささんの日記から

 宮子さんのオンライン日記に、緩和ケア病棟のカンファランスについて書いてありました。

事例は、四十代で亡くなった男性患者さん。私自身も、緩和ケア病棟に来る患者さんへの思いを見直す機会になったと言えます。私の場合は、管理者として、入院の適応を判定するところから患者さんとかかわるために、「がんそのものの治療をあきらめているかどうか」を常に「査定」するような姿勢になってしまうんですよ。ある意味「情け無用」みたいな公正さを自分に課していました。でも、もっと素朴に、ここに来るまでの治療経過へのねぎらいや、それをあきらめることの痛みについて、素朴に思いやりを持っていいんですよね。「本当にお疲れさまでした」。そうゆう気持ちを持って行こうと思いました。

 たとえば、患者が受けてきた治療へのねぎらい、諦めることの痛みに対し、思いやりを持つことが、caringの具体的な内容なのだと思います。現場では今のところ主に、ナースが担っているのでしょう。
 意外だったのは、宮子さんほどの人でも公正さという尺度を優先し、パーソナルな対患者関係を結ぶことに抵抗を感じていたらしいという点です。緩和ケア病棟においては、一般病棟とは違うルールがあっていいのではないかな。もちろん、喫煙可だったり、面会制限がなかったり、という表面的なルールはもうすでにあるわけだし、ナースの体制にしても他とは違う配置基準だったりするわけですが、医療者の体制や心構えといった面では、まだまだこれから考えて改善していかなければならない部分がいろいろあるのだなと思いました。一般的な看護管理理論は通用しない世界なのではないかと思われるのですが、看護学校での教育でそこまで踏み込む例は未だ聞いたことがありません。そういう本も、たぶん、出てないのではないかな。
 これは、東北大の清水哲郎さんの専門分野。今度、機会を見つけて質問してみよう。

食育推進

 むやみに反骨精神を発揮しても何も得はしないし、得はしないどころか最近ではたとえば、郵政民営化ってどうよ?と言ったらアタマ悪い人みたいに思われたし(ええ、アタマ悪いですけど何か?)、自立支援法ってどうよ?と言ったら仕事先が一つ減ったし(ええ、負け組ですが何か?)、あんまり言わない方が波風立たずにいいのかもね〜、と思う。いいんじゃないですか、って言ってれば、いいんだろう。
 健康日本21にもだいぶ違和感を感じたのだが、食育推進というやつにも同じような違和感を覚える。
 私がこのはてなの中で尊厳死やら精神医療やらとは一見関係なさそうな[料理]というカテゴリーを設けてこれからやっていこうとしていることは、政府が言っている「子どもが大人になってみんな糖尿病になってしまったら国庫が破綻するから、今から食育を施し、なんとか食い止めなければいけません」という発想とはかけ離れている。

2.そもそも「食育」って何ですか?
 食育基本法の中では、「食育」を次のように説明しています。
  (1) 生きる上での基本であって、知育、徳育及び 体育の基礎となるべきもの
  (2) 様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てること

 ハァ? 「育」てちゃえば終わりかよ? 習得させたら終わりかよ? 食べるということは技術かよ? そもそも教えることかい? 食だけ教えて身につくか?

 ちょっと中断。後で続きを書きます。

 今は問いとともに生きたまえ。いつか答えとともに生きていることに気づくだろう。
 ――リルケ『若き詩人への手紙』

 歳をとれば、少しずつわかることが増えて、わたしは問いから自由になり、楽に生きていけるようになるのだろうと思っていた。40代という響きに期待していた。
 そして私は予定通り今40代を生きているわけだが、この世界についての謎は深まるばかりだ。