内田樹

 共同性に対する、根本的な確信みたいなものに支えられてないと、他者性って言葉が出てきた時に耐え切れなくなってしまうんじゃないでしょうか。そうなると、お手軽な差別主義とか、博愛主義に飛びついてしまうのかもしれません。

――週刊医学界新聞 第2613号 2004年12月13日

 この後、レヴィナスについて。

 (レヴィナスは)共同体に対する確かな信頼感があるから、「理解も共感も受け付けない他者」といった、非常にストレスフルな概念に中腰で耐えることができたのではないかと思います。

――週刊医学界新聞 第2613号 2004年12月13日

 「共同性に対する、根本的な確信」を、内田さんは「自分が生きているこの世界への信頼感」とも言う。これはわたし自身にとって長らく大きな課題だった。

 内田さんによれば、レヴィナスは共同体に愛されて育った人らしい。わたしの夫も親族からの愛、それも特に母親の絶対的な信頼のもとに育ってきた人だ。わたしは、夫の母が自分の息子たちに示す絶対的な信頼を、「根拠のない自信」と呼んできた。わたしの母は、エビデンスのない愛を示すことは決してなかった。たとえエビデンスがあっても(ふつうの子よりわたしは成績がよかったし、学校で問題を起こしたことのない優等生であった)、将来はどう育っていくかわからないという不安から、母は必要以上にわたしに厳しく接した。

 わたしは、自分の自信のなさ(中腰で耐えるには自信が必要だ、それも根拠のない自信が)を自覚するにつれ、母から愛されていなかったのであろうかと何度も何度も幼い頃のことを振り返ったものだ。母はわたしのやることをよく見ていて、非常に敏感にわたしの心の内を読み取り、先回りしては厳しく叱った。あれだけよく観察できたのは、わたしのことを愛していたからなのだろう。母のあの不安感と厳しさは、愛情の表れだったのだろう。

 そんなようなことが理解できるようになったのは、つい最近のことである。わたしは母の呪縛から解放され、やっと心の内に、この世界に生きる自分への確信のようなものが芽生えてきたように思う。