『ライフ・レッスン』

 エリザベス・キューブラー・ロスの遺作で、長く助手のように彼女の仕事を手伝ったデーヴィッド・ケスラーとの共著である。
 死に直面した彼女が、今まで得てきた知見を、これから生きる人のために書いて残そうとしたものであり、誰のために、何をどう書きたいかが、とても明確な本で、それだけに訴えるものは大きいが、んが、わたしはどうしても、彼女がしばしば持ち出す「神」という概念を素直に受け入れることはできなかった。まあ、そもそも、わたしはとても疑い深い性質で、人知を超えた存在というものに対して、「神」や「宇宙」という言葉をあてはめて消化してしまうことに、ものすごく抵抗を感じている人間だから。
 でも、ここに書かれたことのいくつかは、これからのわたしの生き方に影響を与えるかもしれない。また、たとえば今企画中の単行本にも、引用できるかもしれない。そう思うので、付箋をつけた箇所を抜書きしておく。その多くが「喪失」のレッスンに負っている。喪失は、わたしにとって大きなテーマだ。時に太刀打ちできないほど、厳しく感じられる。

 手にふれることのできない無形のもの……夢、若さ、独立……も、いずれは色あせ、喪われていく。すべての所有物も、しょせんは借り物にすぎない。あれはほんとうに自分のものだったのだろうか? この現実そのものが永久不変のものではない以上、所有など永続するはずがない。この世のすべては移ろいゆく仮の姿である。永久不変のものをみつけることは不可能であり、いずれはなにごとも「維持しつづける」ことはできないのだと悟ることになる。そして、喪失を予防するための安全策もない。
第4章 喪失のレッスン(p.85)

 喪失は複雑なものであり、化学実験のような単純な反応はありえない。人が喪失にどう反応するかはだれにも予測できない。悲嘆はきわめて個人的なものであり、即座に反応を示す人もいれば、ずっとあとになって劇的な反応を示す人もいる。
第4章 喪失のレッスン(p.97)

 人はみな、自分だけの時間、自分だけの方法で喪失を体験する。人間には拒絶という、すばらしい恩寵があたえられているからだ。だから、その時期がきたときに、はじめてその感情を経験する。感情は、われわれがそれを感じる用意ができるまで、安全なところに貯蔵されている。両親を失ったこどもには、しばしばその例がみられる。おとなになり、対処できるようになるまでは、両親の死に悲嘆を感じないこどもが少なくないのだ。
 過去から逃げきることはできない。過去の悲しみはしばしば、悲しみを味わう準備ができるまで未決状態のままで凍結される。
第4章 喪失のレッスン(p.100)

 われわれはとうぜんのことながら愛してくれた人の死を悼むが、愛してくれず、悼むに値しない人の死にも悲しみを感じる。そんなケースを、わたしは何度もみてきた。けがで入院しているこどもが、自分を虐待した母親に会いたがるようなケースである。母親が虐待の罪で収監され、会うことができないばあいも少なくない。人は自分につらくあたった人の死を悼むことができる。そうしたいときは、素直にそうすればいいのだ。喪に服し、喪失の感情を経験して、愛するに値しないとおもっていた人でも、その死は無視されるべきではないことに気づく必要がある。
第4章 喪失のレッスン(p.102)

 喪失が複雑なものであろうとなかろうと、喪失を体験した人はみな、自分の時間、自分の方法で、いずれは癒されていく。そのプロセスのパターンやそれにようする時間は、人によって異なる。悲嘆はつねに個人的なものである。そして、一か所にとどまることなく人生を歩みつづけるかぎり、すべての人は癒される。
 喪失を克服する過程で知らず知らずに過去の喪失を再現し、それがうまくいって、ついには癒されることもある。喪失に傷ついたことのある人が、喪失から身を守る方法を身につけてしまうこともある。喪失にとらわれない、喪失を否定するという方法を身につける人もあれば、自己の痛みを感じないようにするために喪失に傷ついた他者に手をさしのべる人もいる。そのようにして、喪失の痛みを必要としなくなるような自足状態をつくりあげるのである。
第4章 喪失のレッスン(p.102)

 喪失はおとなになるためのイニシエーションの役割をはたしている。喪失によって、わたしたちはほんものの男、ほんものの女になる。ほんものの友人、ほんものの夫、ほんものの妻になる。喪失は成長への王道である。喪失の劫火をくぐることによって、わたしたちは人生のむこうがわに行くことができる。
第4章 喪失のレッスン(p.106)

 喪失体験の癒しには多くの段階がある。その準備ができたら、まず喪失を実感し、その事実を事実としてみとめることだ。拒絶という恩寵のはたらきに身をまかせ、こころに感じるべきことを感じているだけだと銘記すればいい。そうすれば、苦しみから逃れる唯一の方法が苦しみを味わいつくすことだという真理がみえてくる。時期がくれば、きっとそれが理解できるようになる。日単位、月単位ではなく、年単位の長い時間をかけて、喪失の意味がわかってくる。そしてやがては、喪失が生じるようなこの世界を受容している自分を発見することになる。
第4章 喪失のレッスン(p.107)

 死に直面している人たちをみつめていると、そこに象徴的な意味を読みとることができる。はじめ、かれらはしきりに自分の写真をとらせる。まるで「自分はここにいたんだ」といっているように。やがて病状がさらに悪化すると、あたらしいレベルに突入し、写真をとることをやめる。写真もまた永続するものではないことに気づくのだ。運よく何世代かにうけつがれたとしても、自分の存在をまったく知らない人たちがその写真をみるだけなのだ。そして、写真よりもはるかに重要なのは自分のこころと、自分が愛した人たちのこころであることに気づく。そこに喪失を超越するものをみいだす。自己のほんものの部分、愛した人たちのほんものの部分が失われることはないのだ。ほんとうに重要なものは永遠に失われることはない。うけとり、あたえてきた愛が失われることはないのだ。
第4章 喪失のレッスン(p.107)

 なぜ、あしたのほうがきょうよりも幸福や力を手にする可能性が高いようにおもえるのだろうか? それは、「もっと」というゲームのなかで自己をあざむき、自分の力を失っているからだ。「もっと」というゲームは人間を「不足」という場所にとどめ、「まだまだ」だと感じさせる。ほしいものを手に入れても、気分はちっともよくならない。「まだまだ」だと感じるからだ。まだまだ不幸だ。もっとあれば、もう少しだけあれば、幸福になれる。重要なことは単純なものだという事実に気がつかないのだ。
 死の床にある人たちは、「もっと」というゲームを卒業している。
第5章 力のレッスン(p.119)

 感謝する人は力のある人である。感謝が力を生みだすからだ。世にある豊かなものはなんであれ、いま手にしているものに感謝する気もちに根ざしている。
 真の力、真の幸福、真の健康は、感謝という高度な技術のなかにみいだされるものだ。いまあたえられているものにたいする感謝、ものごとがそのようにあることへの感謝、自己が自己であることへの感謝、生まれたときに自分がこの世界にもちこんできたものへの感謝。感謝のたねはつきない。自己の唯一無二性への感謝。たとえいまから100万年がたっても、自分とまったくおなじ人間はあらわれない。自分とまったくおなじように世界をながめ、おなじように世界に反応する人間はいない。
第5章 力のレッスン(p.121)

 なぜAが死に、Bが生き残ったのか、その理由を問うことは人間の範疇をこえている。それは神または宇宙の配慮にかかわるできごとなのだ。たしかにその問いには答えがないが、生じた事態に理由をみいだすことはできる。幸か不幸か生き残った人は、生きるために助けられた。したがって、真の問いは、つぎのようになるはずだ。「生きるために助けられたとすれば、生きる覚悟はあるのか?」
第6章 罪悪感のレッスン(p.126)

 変化はたいたい、離別、卒業、喪失、死などによって、ドアがバタンと閉められたときにはじまる。出口がなくなり、先がみえない状態のまま、人は失った時間を嘆き、不安な時期をすごす。この不確定な時期はとてもつらいものだ。しかし、もうだめだとおもったそのときに、なにかあたらしいことがはじまり、ドアがひらく。変化に抵抗しようとする人は、自分の人生そのものに抵抗していることになる。必要なのは変化に乗じること、少なくとも、変化をうけ入れることである。
第7章 時間のレッスン(p.141)

「人為的な時間が解体すればするほど」とかれはいった。「あらためて自分が時間のなかに生き、時間のなかで死ぬのだということがわかってきました。そして、自分が本質的には永遠の存在であり、過去にも、現在にも、未来にも生きる存在だという気がしてきたのです。人間の核心的な部分には、じつは時間なんてないんですね」
 過去は不確実であるというのが、時間の真相である。自分がおもっているようなかたちでそれがほんとうにおこったのかどうかは、だれにもわからない。そして、未来もまた確実ではない。第一、時間が直線的に進むかどうかさえ確実ではないのだ。
第7章 時間のレッスン(p.148-149)

 人生がわたしたちにあたえるものの多くは、恐れや心配などの前兆なしに、いきなりやってくる。恐れが死の進行をとどめることはない。恐れがとどめるのは生の進行である。大部分の人がかんがえている以上に、わたしたちの人生の多くは恐れとその波及効果への対処に費やされている。恐れはすべてをさえぎる影である。愛、真の感情、幸福、そして存在そのものが恐れの影にさえぎられている。
第8章 恐れのレッスン(p.157)

「でも、おれはもうリラックスしてるよ。時間はたっぷりあるし、人生をエンジョイしてる。散歩をしたり、芝居をみたり、ゆっくりと時間をかけて食事をしたりね。いつか人生をたのしむために、なぜそんなに生産的にならなきゃいけないんだ? すでにいま、人生をたのしんでいるんだぜ」
第10章 遊びのレッスン(p.196-197)

「人生を建てなおそうとおもいました。こどものころのように、仲間といっしょに楽しくやりながら生きたいとおもったんです。公園に行ったり、コンサートに行ったり、忙しく歩いている人をながめたり、殻にとじこもるのではなくて、たまには知らない人にも声をかけたりするような生活。そんなことをかんがえていたら、人生がとても愛しいものにおもえてきました。また人生を楽しむときがきたんです」
第10章 遊びのレッスン(p.205)

 手を放すということは、ものごとがこうなるべきだとするイメージをすて去り、宇宙がもたらしているものをうけ入れることである。ものごとがこうなるべきだなどは、ほんとうはわからないのだという真理をうけ入れることだといってもいい。死の床にある人たちは人生をふりかえって、そのことを学ぶ。「よくない」状況がけっきょくはよりよい結果につながり、「いい」とおもっていたことが、かならずしも最良ではなかったことに気づく。…略…なにが最良なのかはわからないというのが真実である。だからこそ、自分の将来を知りたいという欲求は手放し、つねに正邪が判定できると主張することはやめ、コントロールできないことをコントロールしようとすることは、やめなければならないのだ。なにが最良かを確実に知っているとおもうときは、その人が迷妄と格闘しているときである。人間がすべてを知ったことは一度もないし、これからもけっしてないだろう。
第12章 明け渡しのレッスン(p.226-227)

 あしたになって事態が変わるまでは幸福になれないと、われわれはいう。だが、あした幸福になれるのなら、きょうだって幸福になれるはずだ。あした愛せるようになるとすれば、きょうだって愛することができるはずだ。仮になにも変わらなくても、癒しをみいだすことはできるのだ。「いまのまま」の人生に自分を明け渡すことが、奇跡のように状況を変化させる。明け渡しとは受容することである。事態の進行に身をゆだねたとき、宇宙はわれわれに自己の運命をまっとうするための道具をあたえてくれる。
第12章 明け渡しのレッスン(p.235-236)

 変えられることで、あなたにそれを変える力があるときは、変えればいい。変えられる状況かどうかを判断する目がたいせつなのだ。人生には、大波にのみこまれたときのような、自分ではどうしようもない事態に巻きこまれるときがある。受容し、自分を明け渡す必要があるのは、そのようなときである。明け渡さなければ、悪戦苦闘のすえに消耗しきってしまうことになる。
 安心できないとき、それが明け渡すときだ。
 いきづまったとき、それが明け渡すときだ。
 自分はすべてに責任があると感じたとき、それが明け渡すときだ。
 変えられないことを変えたいとおもったとき、それが明け渡すときだ。
第12章 明け渡しのレッスン(p.236)

 たいがいの人は幸福というものを、あるできごとにたいする反応としてかんがえているが、じっさいの幸福とはこころの状態のことであり、周囲でおこることとはほとんど関係がない。…略…自分を幸福にするために必要なものはすべてあたえられている。わたしたちはただ、自分のあたえられているものの使いかたを知らないだけなのだ。わたしたちの知性、感情、そしてたましいは、文句なく幸福になるようにつくられている。幸福の遺伝子は完璧に設計され、配置されている。どんな人でも幸福をみつけることができる。必要なのは、それを正しい場所でみつけることだけだ。
 幸福は人間の自然な状態なのだが、わたしたちは不幸な状態に安住するように訓練されている。奇妙なことだが、わたしたちは幸福に慣れていないのだ。せっかく幸福な状態にあるのに、それを不自然だと感じ、自分はそれに値しないなどとおもってしまう。だからこそ、わたしたちはだれかについて、なにかの状況について、つい最悪のことをかんがえてしまう。また、だからこそ、幸福な状態をいいことだと感じる訓練や幸福になるための訓練が必要になるのだ。
 その訓練のひとつは、幸福の探求が人生の目的に不可欠であるという信念をうけ入れることにある。
第14章 幸福のレッスン(p.254-255)

 問題が除去できたら、過去の不快な記憶が除去できたら、幸福になれると、わたしたちはおもっている。そして、バランスのとれた人生を送りたいと望んでいる。しかし、わたしたちがかんがえているバランスはバランスとは似て非なるものである。じつのところ、バランスとはほど遠いものである。悪のない善はなく、闇のない光はなく、夜のない昼はなく、夕暮れのない夜明けはなく、不完全のない完全はない。そしてわたしたちは、その両極、その矛盾、その逆説のまんなかに生きている。
第14章 幸福のレッスン(p.262)

 あなたが最後に海をながめたのはいつのことだろう? 朝の空気を味わったのは? 赤ん坊の髪の毛にさわったのは? おいしい料理をたべたのは? はだしで草のうえを歩いたのは? 青い空をながめたのは? それらはすべて、もしかしたら二度と得ることのできない貴重な経験になるかもしれない。死にゆく人たちが「もう一度だけ星空がみたい」「もう一度、しみじみ海をながめたい」というのをきくとき、わたしたちはいつもハッとさせられる。海のそばに住んでいる人はたくさんいるが、しみじみ海をながめ、海を味わいつくす人はほとんどいない。ほとんどの人は空の下に住んでいながら、星をながめようともしない。わたしたちはほんとうに人生にふれ、味わい、堪能しているだろうか? 非凡なものを、とりわけ平凡のなかにある非凡なものを、感知しているだろうか?
最終レッスン(p.275)


ライフ・レッスン
ライフ・レッスン
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エリザベス キューブラー・ロス デーヴィッド ケスラー Elisabeth K¨ubler‐Ross David Kessler 上野 圭一
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