「精神分裂病状態からの寛解過程」

 『中井久夫著作集1巻 精神医学の経験 分裂病』所収論文。1973年。この本では分裂病となっているが、今は「統合失調症」。言うまでもなく。

 急性分裂病状態を、コンラートが要約。

  • 存在は完全に「世界」対「自己」に二分される。しかも同時に両者は相依相待的に一つの「統合」を構成しないという背理性。
  • 「世界」は「意味するもの」の総体となる。
  • これに対して「自己」は「意味されるもの」となる。

 かくて、ひとは“まなざされ”“語りかけられ”るだけでなく、また、世界によって「読まれる」のである。世界または世界を代表するなにものかによって、「読まれる」という基本的事象性がなければいかなる荒唐無稽な着想も、「分裂病的妄想」ということはできないであろう。

  • バルトの示すように、直示と伴示との関係は、次元の数はまちまちであるが、ヒエラルキー的な構成的関係にある。この階層秩序が崩壊し、この崩壊を前提として、マトゥセクがゲシュタルト心理学の用語を援用していうところの「本質特徴の優位」、すなわち記号学的にいえば「伴示の直示に対する優先」がおこる。ここで留意すべきは、直示−伴示の階層秩序の崩壊をともなわない、単なる伴示の前景突出は「投影的心理空間」の優勢化ではあっても、分裂病のこの段階を特徴づけるものではないという点である。健康者は内的(表象)空間においても、直示−伴示の階層秩序をある程度意志的に昇降する自由をもっている。 

 この後に、小さな字で中井久夫の注釈が続く。

 急性分裂病状態がこのように、知覚−認識的構造として包括的に記述しやすいのは、安永浩のいうように、分裂気質者においてはおそらく、もともと、その世界のよってたつ基底が、距離をおいた認識、しかも知覚親近的な認識によるものであるからかもしれない。これに反して躁うつ病に親近性をもつ人々のより行動親近的な認識にとっては、世界を把握し、実例を枚挙するために走査的に世界の中を“歩きまわら”なければならず、それゆえ実際に世界の中において行動しなければならない。
 分裂気質者における、この知覚−認識的な世界基盤は多少とも生育史的に成立したものである可能性がある。すなわち、かつて私がラッセルについてみたように、生育史の初期における彼らの、世界に対する無条件の信頼性の欠如を世界の可能性と整合性を措定して代償しようとする試みと関係があるかもしれない。

 この論文のほんとの魅力は、この小さい活字の中にあったりする。
 統合失調症の病態がこの論文にはつぶさに書かれている。言葉を尽くして、必死に書かれているという印象をもった。
 「急性分裂病状態」の項の結びは以下のとおり。

 奇妙なことに、急性分裂病者のまとまらない言表を長時間にわたって記録することのできる精神科医は多いが、病者の傍らにしずかにすわって小半時をすごすことのできる治療者は意外に多くないのである。これはきわめて不思議なことといわねばならない。問題はおそらく病者より治療者の不安というか治療者の中に誘導されてくる奇妙な焦慮感に存する場合が多いだろう。病者の方が耐えられずに治療者のそばから立ち去る場合はほとんどないのが経験的事実である。

 そうか、そういうものなのか、、、