脳死・臓器移植の本当の話(小松美彦)

 尊厳死法制化に関するルポからの流れで、脳死・臓器移植についても敏感にならざるをえない。このところ、河野太郎などが盛んに臓器移植法改正をぶち上げていて、傍観していれば、大変なことになりかねないという懸念もある。

 特に関心の深い人以外、臓器移植と言えば、移植された人が助かるという以上のイメージがなかなかわきにくいようだ。この状況は尊厳死をめぐって肯定的なイメージが流布しているのとよく似ている。もとより、臓器提供者や、実際に「尊厳死=自然死」した人から言葉が発せられることはあり得ないのだから(死人に口なし)、自分を当事者と思っていない人々が、似非倫理にのっかって楽観的なイメージを抱くのも無理はない。

 しかし実は誰もが当事者なのである。死なない人間はいないし(人間の死亡率は100%)、自分がどのようにして死ぬのか事前にわかっている人間などいないからである。

 河野案で臓器移植法が改正されれば、「脳死」者が事前に臓器摘出を拒否する意思を示していない限り、家族、親権者の代理意思による摘出同意が可能となる。つまりドナーの範囲が今より格段に広がる。提供臓器を増やすための法改正だからである。
 
 次のような事態が待っている。引き起こされるのではない、待たれているのである。待っている人がいるのである。

 あなたはこのエントリーを読んだ後に外出し、交通事故に遭う。病院に運ばれ「脳死」と判定された。その場に呼ばれた家族が移植コーディネイターなどから説得される。「あなたの愛する人は、これからも他の人の命を支えていきます」
と言われて説得される。家族が臓器摘出同意書にサインするやいなや、家族と関係者は病室を出され、代わりに臓器ごとの移植チームが順番に入ってきて、あなたのベッドを取り囲み、心臓、肺、腎臓、肝臓、小腸、角膜、筋繊維など利用できる臓器一切合財をその身体から手早く取り出していく。身体に穿たれた空洞には詰め物がされる。たとえば角膜は膜だけ剥がすものと思っている人は多いと思うが、実際は眼球ごとくりぬくのであって、そのままでは眼窩が窪み、人相が生前とあまりにも変わってしまうというので、眼球に似せたボールのようなものを詰める。消化器、循環器が取り出された跡には、綿などが詰められ、皮膚を縫い合わされる。摘出、詰め物、縫合がすべて終わるまで、家族は患者と対面できない。
 
 移植手術の裏には必ず、はりぼてにされた死体があり、大事な人の死を看取れなかった無念の家族がいる。

 死んだ後のことはどうしてくれようが構わないと考える人もいるだろう。だが、「脳死」が本当に死なのかどうかはまだ医学的に確定していない。「脳死」は今のところ医学界で誰もが認める人間の死の定義ではなく、臓器移植を可能にするために法学的に作られた基準にすぎない。

 臓器移植1件につき、1人は確実に「脳死」と判断され臓器を摘出されて本当に死ぬ人がいる。臓器移植推進論者は移植されれば助かる人もいると言うが、移植手術そのものは成功したとしても、その後の免疫抑制などに失敗する例はいまだ相当多数で、おおまかに言うと、臓器を移植された患者(=レシピエント)の5年生着率は、アメリカの統計によると、腎臓で65%、膵臓で41%、肝臓で64%、小腸で33%、心臓で70%、肺で43%である。1年生着率は、それぞれ、88%、77%、80%、71%、85%、77%である。この数字だけ見ると、人より長生きはできないかもしれないがそれでも少し延命できるのであれば臓器移植に意味があるのではないかと思う人は多いだろう。この数字にトリックがあることに気づく人は少ない。

 移植には通常、待機期間がある。待機リストの上位にいる患者ほど病状が重く、移植を待つ間に死亡することも多い。アメリカでは心臓の平均待機期間は6か月である。ある学者が心臓移植を待って6か月を過ぎた患者の1年生存率を算出したら、83%だった。移植した場合の生着率と5%しか違わない。9か月以上待った患者は、その1年後も88%は生きている。ここにおいては、あえて移植を施し手術のリスクとその後の免疫抑制のリスクを抱える意味は薄らぐ。術後のQOLと内科的治療を継続した場合のQOLの比較が綿密になされる必要もあろう。

 人の命は数字では語れない。確率の問題ではない。患者の生きる望みを叶えるのが医療の役割であろう、という意見はもっともで、もっともだと思うから、もう一つ、例を挙げよう。それは、臓器提供者(=ドナー)にも、命があり、生きる望みがあってしかるべきだということを示す例である。

 「脳死」患者は、臓器を摘出するために身体にメスを入れられると、玉の汗をかき、血圧が上がり、涙を流す。この反応が単なる脊髄反射なのか、それとも現在の医学では測ることのできない脳のどこかの働きによるものなのか、それはわかっていない。脊髄反射だというエビデンスがないということは、その「脳死」患者が痛みを感じていないというエビデンスもないということである。「脳死」患者は自発的に(自動的に?)手を胸の前で組んだりもする。その行動(あるいは動作)にどんな意味があるのか、あるいは意味はないのかもわかっていない。言うまでもなく、その身体は温かい。

 痛くて泣いているかのように、また、祈っているかのようにも見える「脳死」者を、リサイクル可能な部品を備えたbody(死体)だと心から納得できる人は、どうだろうか、そう多くはいないだろう。そこで、なにしろ、死んだことにした患者がそのような「人間的」な反応を示すのでは、誠に摘出がやりにくい、と、臓器摘出の際には麻酔をかけるのが通例となっている。

 「死んだ」人間になぜ麻酔をかけるのか?

 待機患者が見知らぬ他人の死に代えてでも自らの生への希望を捨てることができない一方で、未来の臓器提供者(それは他ならぬあなた自身のことだ)にも、死ぬまで生きる権利があり、生きたいという願いがあり、生きていてほしいと願う家族がいる。

 私自身、「脳死」者をこの眼で実際に見たことがあるわけではない。が、数々の徴候が、感覚を持って、時には思考という高度な営みを持って、生きている可能性を示している以上、その人から臓器を取り出して死に至らしめることを「医療行為」と呼ぶ気にはなれない。やはりどう考えてもそれは「殺人」であろうと思うのだ。そしてまた、そのような「殺人」を前提としてなされる移植を手放しで医学の進歩であるとして賞賛する気にもなれないのだ。


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