011:介護施設で看取るということ(いのちを見つめる 1)

ISBN:4380085007

 このシリーズ(「いのちを見つめる」)のなかでこれが一番売れてるのだそうだ。タイトルで何が書いてあるのかすぐわかるし、人の関心もまずはそんなところへ向いているのだろう。これ1冊読むと、なんとなくだが施設での看取りでどこまでできるのかみたいなことはわかる。でもって、ここに割りと詳しく書いてある例はだいたいがよくやってるほうの施設の話なので、親を施設に入れたとき、あるいは自分が入るとき、このレベルを要求してもいいのだな、実際にやっているところもあるわけだし、ということはわかる。
 「わかる」「知っている」ということは、それだけで力となるときもある。だからこの本の意義は十分に認めたうえで、わたしはしかし、これでいいのかとも思った。それについてちょっとだけメモしておこう。
 執筆者は介護系のルポやインタビューをいっぱい書いてる人だ。この本からも豊富な取材経験がうかがわれる。それだけに、何か、ある理想の看取りの形、最期の迎え方といったようなイメージが最初からあるように感じられた。おそらく自分の考えに近い施設へ取材に行ったのだろう。だが、一つひとつの施設を訪れる際の説明、導入部分に、数ある介護施設の中からあえてそこを選んだ理由、動機といったようなものはあまり詳しくは書かれていない。行った先で思っていたとおりのことを喋ってもらってそのまま原稿にして、あまり疑問を抱かないタイプの書き手なのだなと思い、それでもこうして次々と形にして世に問うというのも一つのやり方ではあると思うのだが、違和感をもたないでもない。早書きの人にありがちな傾向で、特にこの甘利さんだけをどうこう言うつもりはないのだが、これでいいのか?と、わたしなんかはつい、立ち止まってしまう。
 全体的に未整理なのだ。
 なぜ自分はこのテーマで書くのか、なぜここへ取材に来たのか、何が聴きたかったのか、何を見たかったのか、そして思わぬ何かを目にしたとき、自分はどう感じたか、それはいったいどのような意味をもつと考えられるか、、、なんかこう、やろうと思えば掘るべき部分はいっぱいあるように思うのだが、どれも書かれていなくて、ただ「わかる」というだけでつまらない。
 その「わかる」というのも、著者の“最期観”(死生観というようなものでもない)に誘導されて「わかる」のであり、それがいいことか悪いことかと言ったら、わたしは悪いことだと思う。見知らぬ誰かが、このように死ねたらいいですねと言ってるのを丸呑みして、「そうだね、いいね」と感じてしまうのは危険だとさえ思う。もちろんこの本には直接的に「このように死ねたらいいと思いませんか?」なんて間抜けなことは書いてないのだが、いろんなところへ取材に行ったとバランスをとった風を装って、自分の意見ではなく、これら先進的な施設の人々がこう言っているのだ、そういう施設にいる利用者もこのように満足そうなのだという例を並べ立てられれば、普通、「ああ、こういうのいいなぁ」と簡単に誘導されてしまうのではないかと思うのである。それを危険だと自覚していたか、自分がこう書けばそのようなリスクもあることを著者はわかっていたか。わたしはそこが問題だと思うわけである。

 わたしが思うに、人には生きたいように生きる権利があり、死にたいように死ぬ権利もある。しかし、どう生きたいか、どう死にたいかはどちらも幻想であって、現実ではない。自分ではどうにもならないことというのが厳然とあり、それは他の誰にも取り除くことのできないファクターだ。だから、管は入れずに生まれたときの姿で、痛くなくって、大事な人たちに囲まれて寂しい思いをしないで幸せに死ぬ、なんていうのは、まぁ、ほとんど妄想みたいなものだとわたしは思うのである。管は入れたほうが痛くなく、苦しくないこともあるのだし、生まれたときの姿で死ぬことがなぜ幸せなのかがちゃんと語られているのを聴いたことがない。大事な人たちというのが何を指すのかも人によると思うし、誰かがそばにいれば寂しくないというものでもなかろうと思う。あまのじゃくだからこんなことを言ってみるわけじゃなく、だからさ、世の中にはさ、このように取材して聴いたことをそのまま素直に書けるような健全な人ばかりがいるわけじゃないってことさ。
 いつだったか、別冊宝島訪問看護の看取りについてルポを書いたとき、看護雑誌あがりの編集者がわたしの原稿を勝手に書き直したのを思い出した。「嫁」が「お嫁さん」に直され、「老人」は「ご老人」とか、何もかもが老人と看護スタッフに媚びる表現に直され、しかも結びの段落がすっかり書き直されていた。奴が書いた結びは、老人たちの幸せな最期を支えるために訪問看護婦(その頃はまだ「看護婦」だった)は日夜、よりよい看護を目指してがんばるのだ、みたいな主旨だった。わたしはこれに猛然と反発し、奴の出してきた初校を最初から最後まで真っ赤に直して、この直しが反映されないのなら署名は入れないでくれるように、と念押しして戻した。わたしの美意識に反するあまりに酷い直され方だったので、初校をみるだけのことに丸1日かかった。
 あの違和感だ。なぜだ? なぜ、最期が幸せでなくちゃいけないのだ? 野垂れ死ぬのだって一つの、確固とした人生ぞ。そのことを、なぜ健全なる人々は認めないのだ? そう、そしてその健全なる人の多くが女であることに、わたしは本当に吐き気がするような嫌悪感を抱く。
 まぁ、なんにしても、この本はその意味で未整理だが、知るだけのつもりで読むのならいい。くれぐれも、考えるのは自分の頭で、選ぶのは自分で、そしてまた、選べるということも幻想にすぎないことを忘れるなかれ。