001:巡礼
新潮 2009年 02月号 [雑誌] | |
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この中に収録されている橋本治の最新作『巡礼』を読みました。380枚の長編です。
老齢に至り、心の荒廃した男の来し方が語られます。そしてまた、そのような男をコミュニティがどのように認知し、受け入れなかったかも描かれています。この現代において、しかるべきテーマだと思いました。
書き出しが良いのです。
五年程前のことである。老人達の数は、まだ今ほどには多くなかった。……
と始まりまして、この後がまたよろしいのですが、ここは著者としてもウリの場面だと思いますので気になる方は、これが単行本になった時にぜひとも続きを読んでみてください。
以下、印象に残った文言を抜き書き。
現実というものは歪(いびつ)なものだ。その歪を解消して、すべてが整理整頓された中で生きて行くのは、ある意味で、しんどくもある。毎日毎日、そのきれいに秩序立った日常の中で、なにかを創造し続けなければならない――それをすることになにかの意味はあるのだと、見出し続けなければならない。五十を過ぎて、五十六歳になってしまった矢嶋富子は、その甲斐のない創造活動に倦んじてしまった。別に、日々の掃除をさぼるわけではない。炊事洗濯の一々に手抜きをするわけではない。しかし、無意味な几帳面が自分を疲弊させることを、単調な現実の繰り返しの中で理解してしまった。
↑という割合最初の方の描写と、この物語のエンディングは呼応しています。
……「あるいは――」と思って丸亀屋に行って、「鏝はないかしら?」と言って、「なににお使いになります?」と問われる前に、左官屋の使う大きな鏝を出して来て、「それじゃないのよ。壁を塗るんじゃないんだから」と言って、「あたしもへんだと思ったんですけどね」の後に、「あの、押し絵に使うような鏝はないかしら?」と言った。それで丸亀屋のカミさんは、この土地で最初に、田村喜久江が「押し絵作り」という趣味を持っていることを知った。知ってもちろん、「あたしも習いたいわ」なんてことを言わなかった。「あら、奥さん、押し絵なんかなさるんだ。あの、羽子板の――。いい趣味だ」と言った。それだけで、「あたしもほしいわ」なんていう、図々しいことは言わなかった。
↑ここには、終戦直後にはまだ残っていたある種のたしなみというものが描かれる。それは息苦しくもあったが、ある面では人と人との間の防波堤となって、一人ひとりの心を守る役割もした。
主人公・下山忠市はゴミを集める。いわゆるゴミ屋敷の住人だ。
その住人――丸亀屋の息子だった下山忠市も、また悲しかった。ただ、その悲しみは遠いところに深く埋められていて、悲しみの持つ機能を作用させなかった。
人は悲しいと泣くという。しかし、深く埋められた悲しみは、それが悲しみであることさえも忘れさせてしまう。人の感情をぶれさせる悲しみが悲しみとして機能しなくなった時、人の表情は動かなくなる。かろうじて持ち堪える自分自身に対して介入して来るものへ発動されるのは、驚きとそして怒り。驚き、怯え、怒って揺り動かされたものは、見えなくなった悲しみを増幅させる。しかし、それがいくら増幅されても、見えないものは見えない。
↑ふつうにゴミ屋敷の様子などをワイドショーで見ていても、その行為の裏には、凍り付いてしまっているのか、堆積して粘土のように固まってしまっているのか、よくはわからなけれども容易には動かない何らかの感情があるのだろう、ということはなんとなく想像できる。その本体はおそらく、悲しみっていうやつなんだろうみたいなこともわかる。
下山忠市にとっての悲しみとは何だったのか。
自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かってはいる。しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう? 自分には、もうなにもすることがない。片付けられて、すべてなくなって、元に戻った時、生きて来た時間もなくなってしまう。生きて来た時間が、「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
↑主人公の悲しみは、戦中から戦後を時代とともに生きてきた人間がそれぞれに持っているはずのもの。彼が今、閉じこもっている硬い殻は、かつてはなかったもの。彼がこさえたもの。彼には必要だったから。じゃ、なぜ彼に?
そんなことを考えさせる作品です。答えらしきことも導こうとしてある。だけども、わかって良かったで済ませてしまえるテーマではない。済ませられません。