023:J・S・バッハ
J・S・バッハ (講談社現代新書) | |
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「マタイ受難曲」は、小学生の頃にバッハの伝記を読んで以来、わたしにとってずっと特別な曲でした。その伝記には、「マタイ受難曲」こそ、バッハが全能をかけて神への思いを表現した至高の名曲であると書かれてありました。案外素直な子どもだったわたしは、もっとちゃんとした大人にならなければ聴いてはいけない曲なのだとたてまつり、聴かずにとってありました。大事にしまってある間に、武満徹さんが生前、バッハを愛したこと。亡くなる二日前にマタイの全曲を聴く機会を得たことなどを知りました。
高校2年までピアノを習っていたのですが、バッハはとても苦手で、弾くのは本当に嫌いで、いつも練習では一番最後におざなりで。なにしろ、読譜ということをろくに教わっていないのに、あれを理解して弾けというほうがムリな話なのだと、今ならわかりますが、小学生から中学、高校のわたしにそんな理屈が立つはずもありません。まったくなんだって、こんな古めかしい曲を毎日練習しなければならないのだといまいましく思っていたものです。
高校3年で「受験」を大義名分にピアノをやめ、たった一つだけ受けた大学からは予定通り振られて浪人決定。駿台に1年間通うことになって、生まれて初めて神保町の古書店街というところへ行ってみました。1人で。あの1年間はなぜか、1人で行動した記憶がほかにもいろいろとあります。仲の良かった友だちは、もうすでに大学生になっているか、あるいはわたしと同じく浪人で必死に勉強しているかで、どっちにしてもいっしょに遊ぼうとは言いだしにくかったんだろうと思います。湯島を抜けて上野の博物館や西洋美術館まで歩いて行ったり、東大の本郷キャンパスまで歩いて行ったり。巣鴨の六義園まで行ったこともありました。浪人に人権はないとばかりに小遣いも相当制限されていたので、交通費がもったいなく、歩いて行けるところにはとにかくよく歩いて行っていました。
幼い頃からわたしは本が好きでした。本の中に書かれる世界も好きでしたが、本そのものも好きでした。だから中学のころにはもう、古本屋が集まる神保町という街の存在は知っていました。ウチの2号ハルキがいまで言う典型的なヲタクで、秋葉原という場所に強いあこがれを感じているのと同じように、わたしにとっての神保町とは、そこにはわたしの大好きなものが溢れているはずの場所だったのです。御茶ノ水の予備校に入ってすぐ、興味津々で、予備校から坂をくだっていきました。そこでわたしは本ではなく、意外なものを見つけたのです。数日前、朝のFM放送で聴いたばかりのシゲティの無伴奏バイオリンソナタ&パルティータの3枚組のLPがセットで1500円で売られていたのです。1500円なら買える。あのバイオリンの音が自分のものになる。買わなくちゃいけない。でもこれを買ってしまったら今月の小遣いはゼロ円。でも欲しい。で、葛藤の末、買ってしまったのでした。
大学生になって、リヒターのヨハネを買いました。いずれもCDになってすぐ買い換えました。次はマタイだと思いつつ、マタイを聴く資格があるとはとても思えず、ずっと躊躇してきました。
鈴木雅明の「マタイ受難曲」を入手したのは、つい半年ほど前のことです。「聴く資格」を得たなどと思ったから買ったわけではなく、まぁ簡単に言えば、たまたまちょっと小遣いに余裕があって、買えるなら買っとけばいいじゃないかと軽い気持ちで買いました。なんか若い頃の妙な純粋さがウソのように消えてなくなりつつある今日このごろ。
だけども、マタイはやはり難曲で、いっぺん聴いただけでは「すごい」ということしかわからなかった。何がどうすごいのか、説明してくれる言葉がほしいと思いました。それで礒山さんの『マタイ受難曲』という本を買ったですが、これまた最初の数ページで挫折。元がバッハ族ではないのですから、いきなりこんな専門書はやはりムリです。それで入門書として買ったのがこの本でした。
――なんと長い前置き。
ほんとに入門書です。つらーっと読めてしまいます。バッハの生きた時代の背景がよくわかり、それが音楽とどのようにつながっているかもだいたい理解できました。これから、『マタイ受難曲』をひもときながら、鈴木雅明の「マタイ受難曲」をじっくり聴いてみようと思っています。
先週末は、シュタットフェルトのゴルトベルクを聴きに行ってきました。これもまた、いい演奏でした。
以下、J・S・バッハからの抜き書き。
高い客観性をもって安定していたポリフォニー世界を人間がゆさぶり、主観的に統一しはじめたのである。この世紀の初めに、デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」のテーゼを発表していることは、けっして偶然ではない。
これをホモフォニーへの一歩とみることももちろん可能であるが、ポリフォニーの本質をなす多元性の要素は、バロック時代を通じて維持され続けた。諸声部が緊張関係をもって対立し競い合うことが、バロックの好みだったからである。要するに、求心化の力と多元的離心化の力とが拮抗するダイナミックな過渡期が、バロックであった。人間の自己主張は、当時なお、神との緊張関係に根ざしていたのである。
バッハの生きた一八世紀の前半には、こうした緊張関係が見失われていく。ひとつの旋律にすべてが有機的に従属するという、すっきりしたわかりやすいテクスチュアが、この時期に整ってくる。これが、前古典派から古典派の時代を支配する、ホモフォニーである。
音楽はこれに伴って人間の主観的な感情表現の道具となったわけであるが、私は、音楽史がここで人間を獲得したというより、人間の概念がここで大きく変質した、という見方をとりたい。こうした変化は、啓蒙主義の浸透とともに人間がすべての中心に座り、超越的な存在へのまなざしが急速に希薄になっていったことと、並行しているからである。(p.25-26)
大切なのは、人間からの「超越」を、バッハが人間との直接的なかかわりの中で志向することである。バッハには、人間とかかわらぬ超越の志向はなく、逆に、超越を志向せぬ人間とのかかわりも、ないのである。このかかわりのダイナミズムにおいて、ポリフォニーの数学的な秩序が、人間的な自由と結びついてくる。(p.28)
「罪」というキリスト教的な語彙には、抵抗を感じられる方もあろう。だが、心のうちに高みや理想を思い描くとき、自分の存在そのものに痛みを覚えるという体験は、洋の東西を問わず、広くあるのではないだろうか。私は、これこそ芸術創作の原点であり、芸術に対する感動の原点でもあると思っている。人間の背負う「罪」と、その癒し――音楽においてこの問題をもっとも深く追求したのは、バッハとワーグナーであった。
しかし、この二人がそこから作り出した芸術は、まったく違っている。ワーグナーは、救済へのたえざる渇望を、巨大な楽劇にあふれさせた。この渇望は人間の罪に根ざしたものであり、そこから人間を救済するのは、女性の献身ということになっている。つまりワーグナーにおいては、多分に観念的な理想が、渇望のかなたに高く掲げられているのである。
だがバッハは、罪と救いの両方を、彼自身の音楽のふところにとらえ、出会わせているように思える。たとえば、《マタイ受難曲》。ここでは、キリストを受難に追いやった人間の罪がひとつのテーマとなっており、有名な「ペテロの否み」に代表されるように、人間の弱さや愚かさが痛切に描かれるところが少なくない。
だがバッハにおいては、罪のリアルな描写がすでに、癒しのはじまりなのである。たとえば、罪を悔いて嘆き訴える<憐れたまえ>のアリアを聴くとき、われわれはその感情のさなかにありながらも、そこから音楽を通じてやさしく癒され、解放されるような思いを味わう。それはあたかも、このアリアという「場」において、人の罪と神の赦しが出会っているかのごとくである。ここからこの傑作の、慈愛ふくいくと涌き起こるような印象が生まれてくる。(p.127-128)
↑この解説は、武満徹の夫人の回想に通じるものがある。そこには、武満はマタイを聴き解放されたのではないか、というようなことが書かれてあった。わかると言ってしまっては僭越な気もするのだが、わたしにもこの感覚はわかるような気はするのである。安易に言うべきことではないかもしれながい、死は、生からの解放であるのかもしれない、ということだ。
私は、すぐれたバッハ演奏の条件として、次の四つのポイントをあげたいと思う。
一、旋律を歌うより、リズムの生命力を重んじること。バッハのリズムが生きた「踊り」の感覚に由来していたことは、第一章で指摘した通りである。
二、中声部のふくらんだ厚い響きでなく、外声のくっきり出る透明な響きを基礎とすること。通奏低音に支えられた線的な構成が、これによって見えてくる。
三、テンポ・ルバート(流動するテンポ)によらず、拍節内に置かれたアクセントで、表現を引き立てること。そのアクセントを生かすためには、適切なアゴーギク(わずかな速度の揺れ)が必須である。
四、長いレガートを避け、短いアーティキュレーションを積上げること。バッハの書いたディテールの意味は、これによってしか明確にならない。(p.185-186)
ここで「音の差異に基づく不均等の美学」と呼んだものは、よく指摘される「語り」の要素と、きわめて近いところにある。バロック音楽が「歌う」音楽ではなく「語る」音楽であるという主張は、当時の楽器の構造からも、また、当時の音楽理論書における音楽と修辞学ないし弁論術との密接な関係からも、裏付けることができる。当時風の「語るバッハ」をめざすとすれば、その演奏は音のこまかな差異を敏感にとらえ、アーティキュレーションによる区切りを明確に積み重ねてゆくものでなくてはならないはずである。(p.192)