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1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 1村上春樹

新潮社 2009-05-29
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1Q84 BOOK 2 さよなら、愛しい人 バルトーク : 管弦楽のための協奏曲 / ヤナーチェク : シンフォニエッタ モンキービジネス 2009 Spring vol.5 対話号 運命の人(三)

ASIN:4103534222

 読みながら気になった箇所を抜き書き。

 「交通情報なんてあてになりゃしません」と運転手はどことなく空虚な声で言った。「あんなもの、半分くらいは嘘です。道路公団が自分に都合のいい情報を流しているだけです。今ここで本当に何が起こっているかは、自分の目で見て、自分の頭で判断するしかありません」
(p.17-18)

↑↓少しわざとらしい謎かけが冒頭から続く。

 「それから」と運転手はルームミラーに向かって言った。「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」
 ものごとは見かけと違う、と青豆は頭の中でその言葉を繰り返した。そして軽く眉をひそめた。「それはどういうことかしら?」
 運転手は言葉を選びながら言った。「つまりですね、言うなればこれから普通ではないことをなさるわけです。そうですよね? 真っ昼間に首都高速道路の非常用階段を降りるなんて、普通の人はまずやりません。とくに女性はそんなことしません」
 「そうでしょうね」と青豆は言った。
 「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。
(p.22-23)

 心臓の鼓動が聞こえる。その鼓動にあわせて、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』、冒頭のファンファーレが彼女の頭の中で鳴り響く。柔らかい風がボヘミアの緑の草原を音もなく吹き渡っていく。彼女は自分が二つに分裂していることを知る。彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女のあと半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。私は同時に二つの場所にいる。アインシュタインの定理には反しているが、しかたない。それが殺人者の禅なのだ。
(p.73-74)

 1Q84年――私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。
 Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。
 彼女は歩きながら一人で肯いた。
 好もうが好むまいが、私は今この「1Q84年」に身を置いている。私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。今は1Q84年だ。空気が変わり、風景が変わった。私はその疑問符つきの世界のあり方に、できるだけ迅速に適応しなくてはならない。新しい森に放たれた動物と同じだ。自分の身を護り、生き延びていくためには、その場所のルールを一刻も早く理解し、それに合わせなくてはならない。
(p.202)

 二人はシートに腰掛けたまま、終始黙り込んでいた。母親は頭の中で何かの段取りを組み立てているみたいに見えた。隣りに座った娘は手持ちぶさたで、自分の靴を見たり、床を見たり、天井の吊り広告を見たり、向かいに座っている天吾の顔をちらちら見たりしていた。どうやら彼の身体の大きさとくしゃくしゃした耳に興味を持っているらしかった。小さな子供たちはよくそういう目で天吾を見た。害のない珍しい動物でも見るみたいに。
(p.269)

↑↓人物描写に「耳の形状」が出てくるのは、村上作品の特徴か。この作品にも、天吾だけでなく、いろいろな人の「耳」が描かれている。なぜ耳なのか? それについての論考をわたしは今までまだ読んだことがない。もし村上春樹に会う機会がいつかあったら、ぜひ尋ねてみたい。

 その幻影に出てくる、母親の乳首を吸っている若い男が、自分の生物学的な父親ではないのか、天吾はよくそう考えた。なぜなら自分の父親ということになっている人物――NHKの優秀な集金人――は、あらゆる点で天吾には似ていなかったからだ。天吾は背が高く、がっしりした体格で、額が広く、鼻が細く、耳のかたちは丸まってくしゃくしゃしている。父親はずんぐりとして背が低く、風采もあがらなかった。額が狭く、鼻は扁平で、耳は馬のように尖っている。
(p.313)

 そういう疑問が膨らんでいくに連れて、天吾は自分と数学の世界とのあいだに、意識して距離を置くようになった。それとともに、物語の森が彼の心をより強く惹きつけるようになっていった。もちろん小説を読むことだってひとつの逃避ではあった。本のページを閉じれば、また現実の世界に戻ってこなくてはならない。しかし小説の世界から現実に戻ってきたときは、数学の世界から戻ってきたときほどの厳しい挫折感を味わわずにすむことに、天吾はあるとき気がついた。なぜだろう? 彼はそれについて深く考え、やがてひとつの結論に達した。物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な薬には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。
 年齢を重ねるにつれて、そのような物語的な示唆のあり方が、天吾の関心をますます惹きつけるようになっていった。数学は大人になった今でも、彼にとっての大きな喜びのひとつだ。予備校で学生たちに数学を教えていると、子供のころに感じたのと同じ喜びが自然にわき上がってくる。その観念的な自由の喜びを誰かと分かち合いたいと思う。それは素晴らしいことだ。しかし天吾は今では、数式の司る世界に自分を留保なくのめり込ませることができなくなっていた。どんなに遠くまでその世界を探索したところで、自分が本当に求めている解答は手に入らないということがわかっていたからだ。
(p.317-318)

・・・しかし正しい動機がいつも正しい結果をもたらすとは限らない。そしてレイプというのは、何も肉体だけがその標的になるわけではない。暴力が目に見える形をとるとは限らないし、傷口が常に血を流すとは限らないのだ。
(p.433)

 「そう、今年がちょうど一九八四年だ。未来もいつかは現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしまう。ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられている。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で誰が味方なのかもわからなくなってくる。そんな話だよ」
 「レキシをかきかえる」
 「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ」
 ふかえりはしばらくそれについて考えていた。
 「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている」と天吾は言った。「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」
(p.459-460)

 
 余談。「ふかえり」という呼び名が登場したとき、わたしの頭には、深キョンサトエリが思い浮かんだ。サトエリキューティハニーを演じたときのカンペキなボディ。それと、綾波レイのたたずまい。全部が合体したイメージだ。「ふかえり」ってだから、わたしにとってはかなり憧れに近いステキな女の子なんだけど、かなり怖い。近寄れない。でも大事。そんな感じ。

 「覚えてない?」
 「あいつらはね、忘れることができる」とあゆみは言った。「でもこっちは忘れない」
 「もちろん」と青豆は言った。
 「歴史上の大量虐殺と同じだよ」
 「大量虐殺?」
 「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」
(p.525)

 「・・・今ある月ひとつだけでもじゅうぶん人を狂わせるんだから、月がふたつも空に浮かんでいれば、人の頭はますますおかしくなるんじゃないかってこと。潮の満ち干だって変わるし、女の人の生理も増えるはずよ。まともじゃないことが次々に出てくると思う」
 天吾はそれについて考えてみた。「たしかにそうかもしれない」
 「その世界では人はしょっちゅう頭がおかしくなるの?」
 「いや、そうでもない。とくに頭がおかしくなるわけじゃない。というか、ここにいる我々とだいたい同じようなことをしている」
 彼女は天吾のペニスを柔らかく握った。「ここではない世界で、人々はここにいる私たちとだいたい同じようなことをしている。だとしたら、ここではない世界であることの意味はいったいどこにあるのかしら?」
 「ここではない世界であることの意味は、ここにある世界の過去を書き換えられることなんだ」と天吾は言った。
 「好きなだけ、好きなように過去を書き換えることができる?」
 「そう」
 「あなたは過去を書き換えたいの?」
 「君は過去を書き換えたくないの?」
 彼女は首を振った。「私は過去だとか歴史だとか、そんなものを書き換えたいとはちっとも思わない。私が書き換えたいのはね、今ここにある現在よ」
 「でも過去を書き換えれば、当然ながら現在だって変わる。現在というのは過去の集積によって形作られているわけだから」
 彼女はまた深いため息をついた。そして天吾のペニスを載せた手のひらを何度か上下させた。エレベーターの試運転でもしているみたいに。「ひとつだけ言えることがある。あなたはかつての数学の神童で、柔道の有段者で、長い小説だって書いている。それにもかかわらず、あなたにはこの世界のことがなんにもわかっていない。何ひとつ」
 そうきっぱり断定されて天吾はとくに驚きを感じなかった。自分には何もわかってはいないというのはここのところ天吾にとって、いわば通常の状態のようになっていた。とりたてて新しい発見ではない。
(p.552-553) 

↑この中の人妻の話し言葉に「それにもかかわらず」というのが出てくる。ココではまったくスルーできたのだが、どこか他のところで、青豆だったかが「しかし」と言っているのを読んで、ん?と思い、しばし立ち止まった。「しかし」青豆だからな(笑) 何をどう言ったとしてもありえる話だと思った。だけど、ふかえりだったか、あゆみだったかが「しかし」と言ってるのをまた読んだときには、んんん???と疑問符3倍。ここは「でも」じゃないか、と強く感じたからだった。「でも」という語彙は、村上春樹の脳にはないのだろう。たぶん。