032:夜と霧 新版

夜と霧 新版
夜と霧 新版池田 香代子

みすず書房 2002-11-06
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おすすめ平均 star
star善悪の基準としての書物
star生きる、生かされている意味を考える
star震撼させられました。強く、心を揺さぶられました。

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 大学1年生の時に社会心理学の講義の中で、この本の話を聴いた。さっそく買って読んだのが、これの旧版であった。しかしわたしはいったいどれだけ幼かったのかと今でも呆れるのだが、この本を読んでも“収容所の悲惨な体験談”という以上の何かをつかみとることができなかった。だけどなぜか気になって、そのまま本棚に置いてあった。卒業して一人暮らしを始めたときにも持って行った。結婚した時にも持って行った。子どもが生まれて引っ越した時にも、三人目の子が生まれてまた引っ越した時にも。病気になり、一人前の稼ぎが得られなくなり、家計が立ちゆかなくなって家賃の安い、狭い、今の部屋へ引っ越すと決めた際には、家じゅうの荷物を4割は捨てたのだが、その時にも『夜と霧』は本棚といっしょについてきた。だけど、大学の時に読んでからこの方、箱から出してもう一度読もうと思ったことはなかった。
 新版が出たのをつい最近になって知り、図書館で借りてきた。29年ぶりに読んでみた。まるで聖書のようだった。
 全部抜き書きしてちゃんととっておきたくなる。覚えておこうと、何度も何度も目でなぞった行がいっぱいあった。あぁ、わたしも29年経って、少し大人になったものだ。
 で、借りてきたんだけど、結局買うことにした。子どもたちにもいつか読んでもらいたいから。

 以下は付箋をした箇所の抜き書きです。

「まっただなか」にいた者は、完全に客観的な判断をくだすには、たぶん距離がなさすぎるだろう。しかしそうだとしても、この経験を身をもって知っているのは彼だけなのだ。もちろん、みずから経験した者の物差しはゆがんでいるかもしれない。いや、まさにゆがんでいるだろう。このことは度外視するわけにはいかない。そこで、いわゆるプライヴェートなことにはできるだけふれないことが、しかし他方、必要な場合には個人的な経験を記述する勇気をふるいおこすことが重要になってくる。なぜなら、このような心理学的探求のほんとうの危険は、それが個人的な調子をおびることではなく、かたよった色合いをおびることにあるからだ。そこで、わたしがここに書いたことを今一度、こんどは没個人的なものにまで蒸留し、ここにわたしが差し出す経験の主観的な抄録を客観的な理論へと結晶させることは、安んじてほかの人びとの手にゆだねようと思う。
(p.8-9)

 精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告された者が処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想しはじめるのだ。それと同じで、わたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くはないだろうと信じた。見ろよ、この被収容者たちを。頬はまるまるとしているし、血色もこんなにいいじゃないか!
(p.14)

 看護人が死体を引きずってやってきた。まずは自分がやっとの思いで段を登り、それから死者を外へと引きずりあげた。足のほうから、ついで胴体、最後にごんごんと不気味な音をたてて頭部が、二段の階段を越えていった。
 その直後、スープの桶が棟に運びこまれた。スープは配られ、飲み干された。わたしの場所は入り口の真向かいの、棟の奥だった。たったひとつの小さな窓が、床すれすれに開いていた。わたしはかじかんだ手で熱いスープ鉢にしがみついた。がつがつと飲みながら、ふと窓の外に目をやった。そこではたった今引きずり出された死体が、据わった目で窓の中をじいっとのぞいていた。二時間前には、まだこの仲間と話をしていた。わたしはスープを飲みつづけた。
 もしも職業的な関心から自分自身の非情さに愕然としなかったとしたら、このできごとはそもそも記憶にとどまりもしなかったと思う。感情喪失はそれほど徹底していた。
(p.36-37)

 このような精神的に追いつめられた状態で、露骨に生命の維持に集中せざるをえないというストレスのもとにあっては、精神生活全般が幼稚なレベルに落ちこむのも無理はないだろう。被収容者仲間のうち、精神分析に関心のある同業者たちのあいだでは、収容所における人間の「退行」、つまり精神生活が幼児並みになってしまうことがよく話題になっていた。この願望や野心の幼児性は、被収容者の典型的な夢にはっきりとあらわれた。
 被収容者がよくみる夢とは、いったいどんなものだったか。被収容者はパンの、ケーキの、煙草の、気持ちのいい風呂の夢をみた。もっとも素朴な欲求がみたされないので、素朴な願望夢がそれをみたしてくれたのだ。そうした夢をみた者にとって、収容所生活という現実に目覚め、夢の幻影と収容所の現実のおぞましいばかりのギャップを感じたとき、夢がどのような意味をもつかは、また別の話だ。
 とにかく、あれは忘れられない。ある夜、隣りで眠っていた仲間がなにか恐ろしい悪夢にうなされて、声をあげてうめき、身をよじっているので目を覚ました。以前からわたしは、恐ろしい妄想や夢に苦しめられている人を見るに見かねるたちだった。そこで近づいて、悪夢に苦しんでいる哀れな仲間を起こそうとした。その瞬間、自分がしようとしたことに愕然として、揺り起こそうとさしのべた手を即座に引っこめた。そのとき思い知ったのだ、どんな夢も、最悪の夢でさえ、すんでのところで仲間の目を覚まして引きもどそうとした、収容所でわたしたちを取り巻いているこの現実に較べたらまだましだ、と……。
(p.46-47 「被収容者の夢」)

 わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
(中略)
 そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。知るすべがなかった(収容生活をとおして、手紙は書くことも受け取ることもできなかった)。だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。
 「われを汝の心におきて印(おしで)のごとくせよ……其は愛は強くして死のごとくなればなり」(「雅歌」第8章第6節)
(p.60-63 「もはやなにも残されていなくても」)

 自分を取り巻く現実から目をそむけ、過去に目を向けるとき、内面の生は独特の徴【しるし】を帯びた。世界も今現在の生活も背後にしりぞいた。心は憧れにのって過去へと帰っていった。路面電車に乗る、うちに帰る、玄関の扉を開ける、電話が鳴る、受話器を取る、部屋の明かりのスイッチを入れる――こんな、一見笑止なこまごまとしたことを、被収容者は追憶のなかで撫でさする。追想に胸がはりさけそうになり、涙を流すことすらある!
 被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。
(中略)
 あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
 そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄【くろがね】色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
 わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った、
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
(p.64-66 「壕のなかの瞑想」)

 ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。
(p.71 「収容所のユーモア」)

 すでに述べたように、価値はがらがらと音をたてて崩れた。つまり、わずかな例外を除いて、自分自身や気持ちの上でつながっている者が生きしのぐために直接関係のないことは、すべて犠牲に供されたのだ。この没価値化は、人間そのものも、また自分の人格も容赦しなかった。人格までもが、すべての価値を懐疑の奈落にたたきこむ精神の大渦巻きに引きずりこまれるのだ。人間の命や人格の尊厳などどこ吹く風という周囲の雰囲気、人間を意志などもたない、絶滅政策のたんなる対象と見なし、この最終目的に先立って肉体的労働力をとことん利用しつくす搾取政策を適用してくる周囲の雰囲気、こうした雰囲気のなかでは、ついにはみずからの自我までが無価値なものに思えてくるのだ。
 強制収容所の人間は、みずから抵抗して自尊心をふるいたたせないかぎり、自分はまだ主体性をもった存在なのだということを忘れてしまう。内面の自由と独自の価値をそなえた精神的な存在であるという自覚など論外だ。人は自分を群集のごく一部としか受けとめず、「わたし」という存在は群れの存在のレベルにまで落ちこむ。きちんと考えることも、なにかを欲することもなく、人びとはまるで羊の群れのようにあっちへやられ、こっちへやられ、集められたり散らされたりするのだ。
(p.82 「発疹チフス収容所に行く?」)

 自分はただ運命に弄ばれる存在であり、みずから運命の主役を演じるのでなく、運命のなすがままになっているという圧倒的な感情、加えて収容所の人間を支配する深刻な感情消滅。こうしたことをふまえれば、人びとが進んでなにかをすることから逃げ、自分でなにかを決めることをひるんだのも理解できるだろう。
 収容所生活では決断を迫られることがあった。それも、予告もなくやってきて、すぐさま下さねばならない決断であって、それが生死を分けることもしばしばだった。だから、運命が決断の重圧を取り払ってくれることが、被収容者にとってもっとも望ましいということにもなったのだ。
(p.94-95 「脱走計画」)

 収容所の日々、いや時々刻々は、内心の決断を迫る状況の連続だった。人間の独自性、つまり精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまずいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか、という決断だ。
 この究極の観点に立てば、たとえカロリーの乏しい食事や睡眠不足、さらにはさまざまな精神的「コンプレックス」をひきあいにして、あの堕落は典型的な収容所心理だったと正当化できるとしても、それでもなお、いくら強制収容所の被収容者の精神的な反応といっても、やはり一定の身体的、精神的、社会的条件をあたえればおのずとあらわれるもの以上のなにかだったとしないわけにはいかないのだ。そこからは、人間の内面にいったいなにが起こったのか、収容所はその人間のどんな本性をあらわにしたかが、内心の決断の結果としてまざまざと見えてくる。つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
 かつてドストエフスキーはこう言った。
 「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
 この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
 そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
(p.111-113 「精神の自由」)

(前略)わたしはかつて、若い患者の手紙を読んだことがある。彼は友人に宛てて、自分はもう長くはないこと、手術はもう手遅れであることを知った、と書いていた。こうなった今、思い出すのはある映画のことだ、と手紙は続いていた。それは、ひとりの男が勇敢に、プライドをもって死を覚悟する、というものだった。観たときは、この男がこれほど毅然と死に向き合えるのは、そういう機会を「天の賜物」としてあたえられたからだと思ったが、いま運命は自分にその好機をあたえてくれた、と患者は書いていた。
(p.114-115「運命――賜物」)

 ラテン語の「フィニス(finis)」には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりを様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理的状況は、たとえば失業などでも起こりうる。失業者の場合もありようが暫定的になり、ある意味、未来や未来の目的を見すえて生きることができなくなるからだ。かつて、失業した鉱山労働者を心理学の立場から集団検診した結果、このゆがんだありようが時間感覚におよぼす影響をさらにくわしく調査しなければ、ということになったことがある。心理学では、この時間感覚を、「内的時間」あるいは「経験的時間」と呼ぶ。
 収容所の話に戻ろう。そこでは、たとえば一日のようなわりと小さな時間単位が、まさに無限に続くかと思われる。しかも一日は、権力をかさにきたいやがらせにびっしりと埋めつくされているのだ。ところがもう少し大きな時間単位、たとえば週となると、判で捺したような日々の連続なのに、薄気味悪いほどすみやかに過ぎ去るように感じられた。わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。ことほどさように、収容所での不気味な時間感覚は矛盾に満ちたものだった。
(p.118-119 「暫定的存在を分析する」)

 したがって、収容所生活が被収容者にもたらす精神病理的症状に心理療法や精神衛生の立場から対処するには、強制収容所にいる人間に、そこが強制収容所であってもなお、なんとか未来に、未来の目的にふたたび目を向けさせることに意を用い、精神的に励ますことが有力な手立てとなる。被収容者の中には、本能的にそうした者たちもいた。その人たちは、おおむねよりどころとなるものをもっていた。そこにはたいてい、未来のなにがしかがかかわっていた。人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。これは人間ならではのことだ。したがって、存在が困難を極める現在にあって、人は何度となく未来を見すえることに逃げこんだ。
(中略)
 勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。仲間Fは、待ちに待った解放の時が訪れなかったことにひどく落胆し、すでに潜伏していた発疹チフスにたいする抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだ。未来を信じる気持ちや未来に向けられた意志は萎え、そのため、身体は病に屈した。
(p.123 「教育者スピノザ」)

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としてなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
(p.129-130 「生きる意味を問う」)

 このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
(p.134 「なにかが待つ」)