033:遠い場所の記憶(読みかけ)

遠い場所の記憶 自伝
遠い場所の記憶 自伝Edward W. Said 中野 真紀子

みすず書房 2001-02
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おすすめ平均 star
star語る能力
star根無し草
star確かに興味深い本です、が・・・

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 今日中に図書館に返さなければいけないので、とりあえず読んだところまでの付箋箇所のみメモ。

 サイードには妹が2人いた。

・・・わたしたちのあいだの身体的な接触が無言の強制によって禁じられていたので、まさにそれゆえにこそ、わたしの違反行為は、殴ったり、髪を引っ張ったり、突き飛ばしたり、ときにはひどくつねったりという攻撃的なかたちをとることになったのである。わたしはいつも決まって「言いつけ」られ、「面目を失い」(disgraced)、厳しい罰を食らった(たとえば、映画館へ行くことの禁止がさらに引き延ばされる、夕食ぬきでベッドに行かされる、小遣いを大幅に減額される、最悪の場合は父にぶたれる等々)。
 このようなことが、身体は特別の、問題に満ちた地位を占めているというわたしたちの感覚を助長することになった。少年の身体を少女のそれから分離する底知れぬ裂け目が(思春期という決定的な時期においても、話し合ったり検討したりはおろか、言及されることさえなかったが)、存在していた。
(p64-65)

 ↑なぜここに付箋を貼ったのか、思い出せない(笑)。きっとそのときのわたしには何かピンとくるものがあったのだろう。


 サイードの父はビデオで家族を撮影していた。彼のフィルムの中で、プールで遊ぶ息子を捉えようとしたあるシーンについて。

・・・しかし、あのプールにおけるささやかなシークエンスのように、ときにはわたしも彼の恐るべき支配から逃げおおせることもあったのだ。そのことが告げているのは、わたしが何年も後になって自分の道を歩みはじめてからようやく気づいたことである――「エドワード」には、父親のヴィクトリア朝流儀の躾に甘んじる怠慢だが従順な息子、という以上のものがある。
(p88)

 ↑サイードの場合は父親の支配。わたしは母親の支配から逃れられた記憶がほとんどない。のだが、やはり同じように、自分が実家を離れて一人暮らしを始めたときに、だんだんと幼い頃の小さな自由と、自分が自由だと感じたその瞬間ごとにぎゅっと濃縮されたような感覚を味わっていたことを思い出すようになった。支配から逃れ得る時間がほんの少ししかなかったことを、結果として今は幸福に感じたりもする。ずっと自由であったらわたしはきっと「自由」をわざわざ感じたり、考えたりすることはなかっただろう。わたしは幼いうちから「自由」というものに強いあこがれをもっていた。


 わたしのフルトヴェングラー体験がやや限定的なものにとどまっていたのは、わたしが時間というものを基本的に粗暴な締め付けとして捉えていたことが大きな理由であった。時間は永久にわたしの敵であるように思われ、これから始まる一日を可能性として感じることのできる朝の短いひとときをのぞいては、わたしの生活は予定や雑用や宿題でがんじがらめにされており、ゆったりとものごとを楽しんだり反省したりする余裕などどこにもなかった。・・・・
・・・わたしの性分としては怠けたり油を売ったりするのが好きなのだが、そんな時間の余裕などあったためしがなかった。時間というものを消耗するものとして体験する一方で、それに抵抗し、自分に与えられた時間を長引かせようと、避けられぬ締め切りが目の前に迫るにつれ、あれもこれもとますます多くのことを意識的にやりだす(こそこそと読書をしたり、窓の外を眺めたり、ペンナイフや昨日のシャツといったような必要もないようなものを探したりというような)という生涯続くことになる習慣を、わたしはこの時期に身につけた。腕時計は、まだ時間があるぞということを告げることによって助けてくれることもあったが、たいていの場合は両親や教師や融通のきかない予約などが押し付ける外からの指令の味方をし、歩哨のようにわたしの生活を監視する役割を果たしていたのだった。
(p118)

↑時間に関する感覚はとてもわたしに近い。わたしもこのようにして育った。この点については、ほんとうに、歪んでいると思う。わたしの中のかなり大きな欠落だ。

・・・そして現在、いやに皮肉なことに、自分が白血病という御し難く始末の悪い病気を患っていることを知ったわたしは、現実から逃避するかのようにこの病気のことを頭の中から完全に追い払い、これまで通りの一日の時間配分を維持しようと努めている。この試みはかなりの成功を収めており、五十年前に学んだ「遅い」という感覚や締め切りという感覚が、自分の中に驚くほど刷り込まれていることを実感している。しかし、また別の角度から観れば、この義務と締め切りで構成されたシステムが本当にわたしを救っているのだろうかと密かに自問することもある。もちろん、わたしは自分の病気が目に見えないところで忍び寄ってくるのを知っている。わたしがはじめてもらった腕時計が告知した時間よりは、ずっと狡猾にこっそりと忍び寄ってくる。それをはめていた当時はほとんど意識しなかったが、その時計はわたしの死すべき運命を正確に数量化し、それを完璧に一定不変の間隔をおいた未達成の時間として分割し、延々といつまでも刻みつづけていたのである。
(p120)

 ↑そうだ、この本は単に自伝というだけでなくて、サイード白血病を告知されてから「書いておかなければ」と思って書き始めた本なのだった、と思い出す。

 読んだのは130ページまで。仕方ない、買うかぁ。で、図書館に行ってくる。