055:バレンボイム/サイード 音楽と社会
バレンボイム/サイード 音楽と社会 | |
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昨夜、バレンボイム指揮、ミラノ・スカラ座のヴェルレクをテレビで観た。だからってわけじゃないんだけど、バレンボイムとサイードの対談をまとめたこの本、だいぶ前に読み終わっているのでとりあえず。図書館から「返却期限が過ぎてますよ〜」ってメールがきちゃってるので、さっさとアップして返してこなければならぬ。
いま、付箋をしたところをざっと見渡してみたら、圧倒的にバレンボイムの発言のところに付いている。サイードは言葉と論理の人で、何事かを観察するとその意味を考える。バレンボイムはもっと直観的だ。なかなかすごい人なのであった。
読みながら何度も思ったのは、このテーマでこのような対談が成り立つのは、この二人をおいてもう二度とないだろうということだ。サイードとバレンボイムが同じ時代を生き、出会い、語らう経験を持てたことは、その記録を読むわたしたちにとっても僥倖である。
あとは引用。すごくいっぱいあって、自分にしかわからない意味づけもあるけど、とりあえず。<>はわたしのメモ。
・・・エルサレムという観念においては、僕は自分の家にいる【アットホーム】と感じる。そうでないときは、ごく少数の親しい友人たちといるときに、自分の家にいる【アットホーム】ように感じる。そして、ぜひ言っておきたいのは、エドワードが僕にとって、きわめて多くのものを共有できる唯一の友、心の友になっているということだ。・・・僕がどこかで自分の家にいる【アットホーム】ような気分になるとすれば、じつはそこに移行している【トランジション】という感覚があるからだろう。すべては動いているのだから。音楽だって移行だろう。流動性という観念としっくりいっているときが、僕はいちばんしあわせだ。
(byバレンボイム p.4)
ダニエルがさっき言ったことは(上の引用箇所のこと)、僕も自伝の『遠い場所の記憶』を同じような考えで締めくくっており、とても重要だと思っている。アイデンティティというものはひとまとまりの流れつづける潮流であって、固定した場所や安定した対象に結びつけられるものではないという感覚。それはとても実感がある。
(byサイード p.6)
音は束の間のものだ。通りすぎていく。音にこれほどの表現力があるのは、呼び出しに応じて出てくるものではないということが理由の一つだ。絵画のように、カーテンをあけてもう一度それを鑑賞したり、書物のようにもう一度それを開くことはできない。この特質こそ、フルトヴェングラーがよく理解し、明瞭に表現したものなのだ。
(byバレンボイム p.30)
この本では、フルトヴェングラーの音楽を二人がそれぞれどのように捉えているか、またベートーヴェンの音楽、ワグナーの音楽をどう捉えているかについて丹念に語られる。ふたりの言葉を通して読者は、音楽と社会との決して切り離せないつながりを知る。どちらも、それぞれが独立して成立することはできない時代があった。ついこの間までの世界がそうだった。
違った考えもあるということがたがいに承認されているのであれば、全員の意見が一致する必要があるとは思わない。これは大事なことだ。僕たちはおたがいの見解を尊重し、相手側の歴史をがまんしなくてはならない。とりわけ、ダニエルが言ったように、僕らが話しているのは世界のなかのほんの小さな一角についてなのだから。
(byサイード p.35)
次は、音楽の歴史についてバレンボイムの語り。ここはわたし、秀逸だと思いました。少し長くなりますが、この発言すべて引用します。
それは18世紀と19世紀のあいだの相違だよ。音楽がその迫力や表現をほんとうに最大に発揮できるのは、室内やコンサートホールに隔離されたときだというのは、大きなパラドックスだ。音楽をそれ以外のすべてのものから隔離している実際の要素はとても重要だ。というのは、ある意味で、それが音の世界の創造だからだ。もし聴き手が、いわば演奏の最初の音から引き込まれ、そのまま最後まで気を散らすことなくぴったりついていくことができるならば、その人は一つの宇宙を体験したということができるだろう。ショパンの小品であっても、ブルックナーの壮大な交響曲であってもそれは同じだ。音楽は、一方では孤立して存在するけれど、他方では、社会の出来事を忠実に反映しており、それを予言することも稀ではない。18世紀には教会の教えに対する確信、いろんな意味で、やみくもな信仰があった。それから、ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンなどに始まる革命精神の時代がおとずれる。半音階が多用されるようになり、形式的な変化も起こった。ソナタ形式は緊張や闘争や発展を表すための形式だ。それでも展望はまだ前向きだった――社会や人間中心主義的な考えの健全さを疑ってはいなかった。だが、ワーグナーの時代が来るころには、こうしたものはみな崩壊してしまう。君が言ったように、文学の世界では、バルザックやディケンズの時代だ。とつぜんソナタ形式は、ブラームスの時代までは通用したような表現の基盤を作曲家に与えてくれなくなった。だからリストやリヒャルト・シュトラウスは交響詩というものを発明し、ワーグナーは彼の歌劇【ミュージック・ドラマ】をつくり出した。調性のヒエラルキー(特定の和声が他のものより重要性をもつということを受け入れることになるからだ)がばらばらに解体されはじめ、いっきに信用を失墜する。要するに、もう神の定めたヒエラルキーではなくなったのだ。王制国家の社会階級によるヒエラルキーすらも通用しない。いまや共和国の時代となり、主音【トニック】とか、属音【ドミナント】とか、下属音【サブドミナント】というような、秩序とヒエラルキーを示すような音楽用語が無力化し、最終的にはオクターヴの12個の音のすべてが平等な無調音楽に到達するのだ。
(byバレンボイム p.54-55)
サイード 言語も音楽も、つまるところは時間に結びついたものだ。どちらも、ある時間のなかで生起する。空間という要素はどこで入ってくるのだろう。比喩としてこの言葉を使っているの? それとも実際、それそのものとして考えているの?
バレンボイム 両方だと思う。実際のものとしても見ているし、比喩でもある。ベートーヴェンの交響曲第9番のような緩徐楽章の作品の場合、和声がつくり出す緊張感をほとんど感じさせずに演奏すれば、必然的にテンポが速くなる。それに比べて、和声の内的な緊張、たがいに押しあい、引きあい、こすれあうコードの和声を完全に表現するには、もっとたくさんの空間が必要で、もっとたくさんの時間が必要となる。
サイード だが、その空間というのは、どんなふうに想像したらいいのだろう。上から下までがあって、奥行きもあるものと考えていいのかな。つまり、君はそれぞれの音をたがいに近づけることによって、それまでにはなかった一種の緊張感を与えようとしているということなのだろうか?
バレンボイム そういうことだ。それはまた、絵画における遠近法に相当するようなところもあるね。・・・聴き手は、和音中のいくつかの音は文字通り自分の面前にあるかのように感じ、他の音ははるか彼方にあるような気がする。それは間のとり方の問題であり、水平なものに垂直圧力がかかるという問題なのだ。それは実行可能なことであり、ピアノという錯覚をつくる楽器の使用もそれに一役買っている<ホロヴィッツの演奏のこと>。
(p.101-102)
バレンボイム ・・・芸術的な創造が今日これほど重要な理由の一つは、それがポリティカリー・コレクトであること、無難であることの対局に位置するものだからだと思う。
サイード たしかにそう思うよ。人を気持ちよくさせるだけのようなものを書いても、なんの意味もない。僕の興味が向いてしまうのは、人々を心地よく感じさせるものよりは、むしろ不安にさせるようなことばかりだ。提起すべき疑問があり、問題にすべき態度がある。つまるところ、取り除きたくなるような一定のクリシェというものがあるのだ。
(p.105)
ここ↓は、バレンボイムがベルリン国立歌劇場管弦楽団について語ったところ。
音楽について話すときには、スポーツについて話すように、最高のものとか、最低のものとかいうことはできない。僕はこれが世界でもっともよいオーケストラだといっているわけではない。素晴らしいオーケストラは他にもある。けれど、このオーケストラには自然な流儀として、音楽に対して畏怖の念と行動的な勇気がないまざった感覚をもって立ち向かうところがある。畏怖と勇気という感覚はふつうは一致しないものだ。畏怖の念はしばしば人間を恐怖におとしいれ、不活性にさせる。勇気はしばしば人間を極端な、いわば我欲への奉仕に近い行為へと走らせる。そこには畏怖の念はありえない。そうして、僕らはまたもや同じパラドックスにたどりつく。僕にはそれは人生を理解するための不可欠な要素の一つに思われるのだが、そこに到達することは難しい。なぜならそれは平行線を描いているように思えるからだ。けれども、一方では畏怖の念をもち、受け身でありながら、他方では行動する勇気をもち、積極的であるということができるならば、素晴らしい迫力を獲得することができる。
このオーケストラはいくつかの理由からそのような特質をもっていると思う。一つは、彼らが基本的に全体主義の体制のもとで60年間を過ごしたことだ。1930年代のナチ時代から東ドイツの共産主義政権時代まで。むろん全体主義体制の必要性を正当化しようということではないのだが、音楽と文化は、一般的に言って、全体主義の体制のもとでは、日々の生活により大きな重要性をもっていることが多い。この体制の最悪の点は、人々を恒常的な恐怖のもとで暮らすようにさせることだ。この体制が継続するためには不信感という要素が不可欠なのだ。友人のあいだでの不信、家族のあいだでの不信など。そこでこの音楽家たちは、国立歌劇場のコンサートで演奏しているあいだだけは、ほんとうに一息ついて自由を感じることができたのだ。また、体制に反対していた人たちは、音楽を一種の酸素のように感じていた。なぜなら、ここが彼らにとってほんとうに自由だと感じることのできる場所の一つだったからだ。一方、体制を支持していた音楽家たちは、こんな素晴らしい団体がこんな体制のもとに存在しているということを非常に誇りに思っていた。そのため両方の側から、この職業に対しては特別の態度がとられていた。
(byバレンボイム p.198-199)
↓音楽の神秘的な要素について。
バレンボイム すべてのものが舞台の上でしかるべき沈黙にあるとき――演奏や、表現や、すべてが、永続的に、継続的に相互依存しているとき――それは分離不能になる。これが神秘的なところだ。宗教や神と同じ考えだからね。あるとき突然に分離できないものが出てくる。音楽づくりの経験は、ある意味で、それだ。それはお祈りするという意味で宗教的なわけではないが、分割できないという意味では宗教に似ている。それが実際に起きるときには、能動的な聴き手は、敏感であれば、それに通じあえると思う。これが神秘的という言葉で僕が言いたかったことだ。
サイード それには賛成しよう。だが、それに加えて、喪失という要素も含めるべきだと思うよ、ダニエル。そこには悲劇的な要素がある。シェリーに素晴らしい一節がある。詩的な精神は、創造という行為に従事しているときには、冷えつつある石炭のようなものだと、彼は言う。君がいま述べたことに含めねばならないのは、それがいつも衰えていくものを活かしつづけておくための、並はずれて精力的で献身的な闘いであるということだと思う。
(p.211-212)
バレンボイムの後書き↓
・・・ひとりの人間や、一つの民には、ほんとうに一つのアイデンティティしかないのだろうか。ユダヤの伝統には二つの異なる傾向がある。原理主義的な傾向を代表するのは、ユダヤ問題とユダヤ的な世界観だけに関心をもつ哲学者や、詩人や、学者だ。もう一方の傾向は、スピノザやアインシュタイン、またある程度はハインリヒ・ハイネといったような傑出した人物に結びつけられており、ユダヤ的な思考の伝統をドイツなどの他の文化や他の問題に応用しようとするものだった。ユダヤ人のあいだに二重のアイデンティティがどのようにして発達していったかを理解するのは難しくない。
(byバレンボイム p.232)
サイードの後書き↓(ほんとは全部書き写してここに残しておきたいぐらいだ!)
・・・音楽はたいていの場合、トランスナショナルだということだ。それはネイションやナショナリティや言語の境界を越える。モーツァルトがわかるためにドイツ語ができる必要はないし、ベルリオーズの楽譜を読むのにフランス人である必要はない。・・・<バレンボイムがワーグナーを演奏する経緯を書いたあとに>・・・
合理性のない糾弾や、ワーグナーのような複雑な現象を全面的に非難することは、見さかいがなく、結局は容認できない。それはちょうど、アラブ人が、長年にわたり「シオニストの存在」というような語句を使って、イスラエルやイスラエル人を理解し分析することを完全に拒絶してきあことが(パレスチナ人のナクバ【破局】をひき起こしたのだから、彼らの存在は否定しなければならないというのが、その理由だった)愚かしく、破滅的な政策だったのと同じことである。歴史はダイナミックなものである。イスラエルのユダヤ人がホロコーストを使ってパレスチナ人に対する恐ろしい人権侵害を正当化するようなことをやめてほしいと思うのならば、わたしたちもまた、ホロコーストは起こっていないとか、イスラエル人はみな男も女も子供も、わたしたちの永遠の敵意と憎しみにさらされる運命だなどと発言する愚かしさを乗り越えなければならない。
・・・・・重要なのは、誰かに言われてどちらか一方の側につくのではなく、その状況のあらゆる側面について、何が正しく、当然のことであるのかを判断し、慎重に選ぶことだ。教育の目的は事実を蓄積することでも、「正しい」答えを暗記することでもない。むしろ、自分の力で批判的に考える方法を学ぶことである。
・・・・・・・<長い中略から一気に結びへ>・・・・バレンボイムによるワーグナーの上演は、反ユダヤ主義による集団殺戮の真のトラウマに今も苦しんでいる多くの人々にとっては純粋な苦痛かもしれないが、いったん嘆き悲しんだ後には、次の段階へ移行すること、すなわち人生をそのものとして生きるようになることを許すという、健康的な効果をもっている。人生は先に進まねばならず、過去に凍結されていてはならない。たぶん、この複雑に絡み合った問題のさまざまなニュアンスをすべてとらえることはここではできなかっただろうが、主に言いたかったのは、現実の生活をタブーや禁止でしばりつけることによって、批判的な理解や解放の体験を阻むことはできないということだ。それらはつねに最優先されなければならない。無知や逃避は、現在のための適切な指針ではありえない。
(byサイード p.244-251)
二人の友情に感謝したい。とてもステキな贈り物をもらった気分だ。この読後感を大事にしたい。