058:命は誰のものか

命は誰のものか (ディスカヴァー携書)
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ディスカヴァー・トゥエンティワン 2009-08-05
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 敬愛する香川先生の新刊です。「ナーシング・トゥデイ」という看護師向けの月刊誌で持っていた書評コーナーに原稿を書きました。以下、その原稿。

わたしたちは何を忘れようとしているのか?

 医療現場では、命にかかわる場面が何度でも繰り返される。そのような場にあって、人の命について考え続けるのはとても苦しい。だが逃れようのないテーマである。
 この本には、透析器が発明された時代の患者選別、生殖医療、脳死臓器移植、尊厳死など、これまでに臨床で問題にされてきた事例が記述されている。教科書などで省略されてきた事実に、著者は新しい光を当て、その意味を解説する。読み手が医療者ならおそらく、歴史の中で置き去りにされてきた「本当のこと」に驚くと同時に、自分の「慣れ」に慄然ともするだろう。
 何が自己決定なのか、技術の進歩や法律が人の倫理観を変えてしまうなどということはあるのか(あっていいのか)等々、ゆっくりと考えながら読んでも明快な答えは出ない。著者はあとがきで「次つぎに出てくるさまざまな問題につきあいながら、知識のパッケージ化の進行が予想させる人間の未来についても考え、問うことが必要だと思う」と書いている。至言であった。
(ナーシング・トゥデイ 2009年12月号)

 あと、この本のなかでピーター・シンガーについて触れているところを引用。

  • 「臓器移植のために、脳死は無理矢理に死とされた」

 しかし、日本が送れているというのは本当なのだろうか。遅れているように見えるのは、諸外国では日本がさんざん議論してきたような問題点を見過ごしてきただけではないのか。
 たとえば、ハーバード大学の医師で倫理学者のロバート・トゥルオグは、1997年に、「脳死を放棄すべき時ではないのか」という論文を発表し、脳死が人の死であるという主張を退ける議論を展開している。まったく同じ主張は、オーストラリアの倫理学者、ピーター・シンガーも展開している。
 シンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』(樫則章訳、昭和堂)によれば、脳死を人の死とすることには無理がある。欧米では脳死を人の死として、臓器移植を進めてきた。しかし、脳死のことがわかるにつれて、従来の前提が次つぎに崩れてきたというのである。
(略)
 さらに、シンガーによれば、脳死は人の死だとされてはいても、実際には、脳死状態の人は死体として扱われていない。
 先に触れた2005年の厚労省の調査にもあるように、欧米で調査をすれば、脳死に接する機会のある医療者の圧倒的多数は脳死は人の死であると答える。しかし、シンガーは、そう答える医療者の少なからぬ人たちが、脳死患者を死体扱いしていないことを指摘する。欧米の専門家にとっても、脳死は見えない死であり、素朴な死の実感と乖離しているからだ。
(略)
 シンガーは、このように、脳死を人の死とすることは、科学的にも感覚的にも無理があると指摘する。にもかかわらず、なぜ脳死は人の死とされてきたのか。
 シンガーによれば、それは臓器移植という目的があったからにほかならない。脳死は、臓器移植という目的のために、無理矢理に人の死とされてきたというのである。
 ただし、シンガーやトゥオルグは、こうした議論によって、脳死臓器移植に反対しようとしているわけではない。彼らにとって、臓器移植は端的に善である。そのため、批判は、「ドナーは死体」というルールに向けられる。彼らによれば、放棄すべきは、「ドナーは死体」ルールであって、脳死臓器移植ではない。
(p.195〜197)

 それからちょっと前のほうに戻って、自己決定について書かれているところを抜粋。

 医療技術は不自然さを通して自然を回復しようとする試みだといえる。自己決定という原理が繰り返し登場するのも、それがじつは自然さに支えられているように思えることが関係しているだろう。
 不自然さは自然さに支えられている。そのことをいうための装置が、自己決定の論理になっている。そこにあるのは、論理を超えた生命をコントロールしようという人間の深い欲求だ。それが技術の発達を支えている。
 そのため、主張に論理的欠陥を指摘しても、あまり響かない。おそらく、自己決定の主張が自己の範囲を超え出て行く底には、そうした人間の深い欲求を見るべきである。
(p.125-126)

  つづいて、射水の病院での出来事についての章の結びを抜粋。

 ・・・医療がもちこたえられなくなったとすれば、それはどうしてなのか。患者家族の意見を重視した結果について、法的な責任の免除が明示されていないことが問題なのだろうか。家族の意見とはいっても、常に家族の意見が一致するとは限らない。誰の意見を重視するべきなのか、基準があるようでないところがある。そうした不明瞭さが問題なのだろうか。
 しかし、アメリカの場合を見ても、そうした問題が法律やガイドラインで解決がつくとは思われない。
 たしかに、医療陣が常に法的責任の問題に振り回されて、適切な判断がしにくい状況があるとすれば、法律などで保護の条件を示すことは、よりよい医療を実現する上で、役に立つかもしれない。しかし、そうした判断の基準を示せたとしても、それだけでは真の当事者が取り残されるおそれがなくなるわけではない。
 患者からすれば、スパゲッティ症候群と呼ばれるような状態で、無理矢理最新の機械を使って、命をながらえさせられるのはかなわない。多くの人が願うのは、ともかくなんでもいいから生かしておいてほしいということではないだろう。
 願いは治療停止の基準を設定するのとは逆の方向を向いている。死は避けられないにしても、最期までちゃんと生きていたいのである。
 その点を考えることなしに、ただ法律やガイドラインをというのでは、木を見て森を見ないということになりかねない。ことを急ぐだけが求められてはならないのである。
(p.172-173)

 生命倫理という難しそうに思えるテーマで、一般の人向けに新書版の読みやすい形で出たことがうれしい。