エイズの起源 ジャック・ペパン著、山本太郎訳、みすず書房 2013年7月第1版
- 作者: ジャック・ペパン,山本太郎
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2013/07/06
- メディア: 単行本
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著者はカナダの感染症研究者(医師)で、1988年からエイズの研究に取り組んできた。この論文はケンブリッジ出版会から2011年に発行された。著者の視点は、訳者があとがきで端的に記述している。当然、あとがきでなくてもそこかしこに著者本人も書いておられるわけだが、あとがきのココ↓が一番クリアでわかりやすい。
訳者あとがき p.341
本書の核心を構成する疑問のいくつかを紹介したい。第一に、現在流行しているエイズが、なぜ、1921年頃といった時期にヒト社会に持ち込まれたのか。第二に、ヒト社会に持ち込まれた後も、長く100人程度の感染者しかいなかったこの感染症が、なぜ、その後半世紀の間に世界全体で3000万人を超える感染者を出すに至ったのか。偶然だったのか、あるいは必然だったのか。
したがってこの本に書かれているのはおもに、ランディ・シルツの『そしてエイズは蔓延した〈下〉』より前のお話ということになる。
ウイルスの解析技術が進み、分化の系統やそれが起こった時期まである程度特定できるようになった。そうして得た医学上の成果や、現存する血液サンプルの分析結果や、焦点となる時代と地域の社会的背景など、HIVの軌跡を知るためにいま用いることのできるあらゆる素材を重ね合わせて、HIVの歴史を描き出そうとしたのがこの論文だ。それはもう気の遠くなるような作業であったに違いないが、著者は丹念に(「執拗に」あるいは「偏執的に」と受け取る読者もいるかもしれないほど)一つずつ拾ってはパズルの絵に当てはめていく。疫学という学問が、想像以上の大きさの時間と空間を対象にしていることに軽いショックを受けつつ、能力と熱意のある医学者に、社会学者や歴史学者なども加われば百人力だろうに、と思わないでもなかった。
必然的に、植民地時代のアフリカについての記述が多くなる。わたしなどはアフリカの歴史についてはほぼ何も知らなかったに等しいジャンルだ。旧約聖書の最初のところみたいに退屈なのだけど、飛ばし読みができない。たとえば…
第5章 過渡期のアフリカ社会 p.111
振り返ってみると、第二次世界大戦の影響は、その大半が精神的なものだった。アフリカ人たちは、彼らの主人であるフランス人やベルギー人が完璧でないこと、ヨーロッパ人が、自らが賞賛する理想の文明的な方法とは全く異なる振る舞いをすること、そして何よりヨーロッパ社会が一枚岩でないことを知った。また、戦後のインドの独立は、植民地支配が永遠に続くものではないという強いメッセージを植民地の人々に与えた。植民地主義の下に横たわる人種主義に対する怒りは大きなものとなっていった。亡命中の両政府は、母国を解放するためにアフリカ軍を使うことを完全に拒否した。もし彼らを使えば、植民地支配の存続に欠かせないアフリカ人の劣等感を維持できなくなることを、両政府は十分に理解していたのである。
ウイルスはヒトからヒトをつたって自在に移動していく。大陸を渡り、場を得るとそこで無差別にヒトを襲う。HIVは未来のある子どもにも遅いかかった。その背景には、政治の空虚や、経済の破綻、ずさんな医療が存在した。いつかそういえばこんなこと↓も盛んに報道されていたっけ。
第7章 ウイルスの感染と伝播 p.156
1989年、ルーマニアではチャウシェスク政権が崩壊した。その直後、ある医学誌がルーマニアの病院と孤児院に368人のHIV感染小児が存在すると報告した。1990年までにルーマニア保健省には1168人の感染小児の存在が報告された。その94%は4歳以下の子どもだった。この年齢分布は明らかに異常である。小児感染者の3分の2は両親によって遺棄され、孤児院あるいは保護施設で育てられていた子供だった。所在が確認された母親のうちHIV陽性者は10%に満たなかった。通常でない感染経路の存在が疑われた。
当時ルーマニアでは、多数の栄養素を補給するために栄養不足の子供に輸血が行われていた。輸血は少量だった。1単位の血液が2,3人の子供に分割投与された。小児感染の3分の1は検査されていない血液によって起こった。残りの3分の2は、注射器と注射針の共用によって起こった。HIVに感染した子供の多くは300回以上にも及ぶ筋肉注射を受けていた。異常な回数である。
成人T細胞白血病ウイルスについての記述は、個人的な関心もあって引用しておく。アフリカでは医原性に感染が拡大したことについて、他の論文も探してみたい。
第8章 植民地医学の遺産(1) p.202
中央アフリカ共和国南西部の田舎、ノラとその周辺でも高齢者を対象に同じような研究(引用註:静脈注射を受けた可能性のある病歴のインタビュー)を行った。その地域は1930年代から40年代にかけて、眠り病の流行が最も激しかった地域である。C型肝炎ウイルスの陽性率はカメルーンよりずいぶんと低かったが、私たちは、1930年代から40年代にかけて行われた眠り病に対する治療がC型肝炎ウイルス感染と関連があることを見つけた。一方、眠り病に対する予防として1946年から53年にかけて行われたペンタミジンの注射が、成人T細胞白血病ウイルスの感染と関連していることもわかった。成人T細胞白血病ウイルスはレトロウイルスで、血液媒介性ウイルスとしてはあまり研究されてこなかったが、HIV-1の代理指標として興味深い。というのも、成人T細胞白血病ウイルスもツェゴチンパンジーに起源を持ち、CD4陽性リンパ球に感染するからである。ただしエイズを発症することはない。さらに私たちは、1930年代から40年代にかけて眠り病の治療を受けた個人の間で過剰な死亡が見られることにも気づいた。他のすべての原因を排除した上で、私たちは、この過剰な死亡の原因がHIV-1の医原性感染によるものだと推測した。
第11章ではHIVはアフリカ大陸から外へ出る。この本全体の中で最も地誌的スケールが大きく、スリリングな展開もあって、とても興味深い。その合間合間にも、著者ならではの感性を示す記述がある。社会のありようによって抑圧が生まれ、抑圧された人々はどのように行動し、それがどのような結果をもたらすか。このような疫学の論文を書くにあたっては、不可欠の視点だと思うが、医学部ではあまり教えてもらえないことだろう。
第11章 コンゴからカリブ海へ p.256
1950年代初期の繁栄(引用註:コンゴの社会資本が整備された時期)はコンゴにベルギー人を惹きつけた。コンゴに移住したベルギー人の大半はフランドル地方の貧しい農民か牧畜民だった。彼らの露骨な人種主義と彼らに約束された広大な土地は、コンゴ人たちの民族感情を悪化させた。どこからともなく、10以上の政治組織が生まれた。それぞれの組織は、毎週のように独立への承認をめぐってデモを行った。レオポルドヴィルで起こった1959年1月の異動は、コンゴ人はもはや植民地の圧政を容認しないということを示すものだった。その数カ月前の1958年、ブリュッセル万国博覧会の期間中、多くのコンゴ人がはじめてベルギーを訪問した。そのコンゴ人が驚いたことの一つに、多くの貧しい白人がいて、そうした白人が社会のいたるところで雑用のような仕事をしていることがあった。抑圧は心の問題だった。抑圧された人々はその運命を日常的で避け難いものとして受け入れ、劣等性を過去の出来事の結果というよりむしろ先天的なものと考えていたのである。そして1959年、コンゴ人たちは植民地の枠組みを拒否し始めた。市民による不服従運動が起こった。
木は森に通じる。わたしたちの社会にいまもHIVが蔓延し、毎年新たに人を病気にし、死に至らしめていることと、いつまでもこの世界から核ミサイルがなくならないこととは、実はつながっている。
第15章 エピローグ p.334
エイズが出現した第二の要因は、滅菌されていない注射器と注射針の再利用であった。中部アフリカでは、この要因は、感染者数を性的感染の連鎖が回り始める水準にまで引き上げることで流行の拡大に寄与した。振り返ってみれば、こうした医原性感染は、静脈注射を必要とする治療薬の開発から、こうした経路で感染する感染性病原体――とくにウイルス――の認識に至るまでの、わずか50年足らずの間に起こった。人類が自然を完全に理解しないままそれを操作するとき、そこには常に何か予期せぬことが起こる可能性がある。
このことは、人類の生存に対して長期的に最も脅威となるのは人類そのものである、という教訓を思い出させる。これはしばらく前から自明な話である。私たちの世代、あるいはその前の世代は、核による大量破壊の恐怖ととともに育った。核ミサイルの数は減ったとしても、核開発の技術を持つ国の数は増加している。そのことはある日、誰かがそのボタンを押す確率も増加していることを意味する。私たちの子供の世代は、緩やかにだが破壊的な影響を持つ地球温暖化の脅威のなかで育つ。人類は新たな脅威をすばやく理解する能力に長けてはいない。ちょうど数年前のことであるが、米国大統領は「米国の生活様式は交渉の対象ではない」として、京都議定書への批准を拒否した。それはまるで、米国文明とその価値の中核とは、ビッグスリー――とはいえいずれも、当大統領の任期が終了する頃には弱体化したが――によって生産される四輪駆動車である、と言っているようなものであった。
人間は傲慢だ。
さて、訳者あとがきの中から、まとめ。
訳者あとがき p.342
これらの疑問は、感染症とヒト社会の関係を考える上で、さまざまな示唆と視点を与えてくれる。読者にもこの問題を考えてもらいたい。仮に、1921年前後に、現在の流行の出発点となるチンパンジーからヒトへの種を越えた感染が起こらなかったとすればどうだろう、と。あるいは、この時期にHIVの原型ウイルスがヒト社会に現れなかったとすれば、または熱帯医学のある意味の進展がその時期になく、さらには、善意にもとづいた植民地における医療行為があの時期に行われることがなければ、エイズ流行の様相はどのようになっていただろう、と。
(中略)ヨーロッパの植民地制作はエイズ流行に大きな影響を与えた。20世紀の最初の半世紀、レオポルドヴィル/ブラザヴィルは労働収容所の様相を呈した。それが売春の繁栄を通してエイズ流行に与えた影響は何だったのか。コンゴ独立前後の政治的混乱がもたらした影響は何だったのか。それはコンゴに何十万人もの国内避難民を生み出した。大規模な貧困と失業が見られるようになった。一日に何人も客を取る売春婦が現れた。そうした売春婦の一年間の客総数は1000人を超えた。そうした事実が何をもたらしたのか。