『自傷行為の理解と援助』松本俊彦著、日本評論社

 対象を先入観なしにとらえ、内外の研究成果と照らし合わせて解き明かしていくという、当たり前かもしれないけれども意外ともしかすると日本の臨床にいる精神科医がやっていないかもしれないことが、この本の中できちんとなされていて、ちょっと感動モノでした。精神科の臨床で患者を診るとは具体的にどういうことなのか、考えさせられる内容でした。
 付箋をたくさんつけた中から一つ。
 自傷行為を、操作的・演技的行動とみなす医師は、自傷行為を治療契約にあたっての禁止事項とし、自傷をおこなった患者に強制退院や治療中止を申し渡すことがあるとのこと。そのことについて松本先生はこう書いています。

・・・この手の誤解は案外根強く残っている可能性があります。比較的最近でも、私が学会などで自傷行為に関する研究発表をすると、フロアにいるベテラン精神科医から指摘を受けることがあります。いわく、「先生は、自傷のような『枝葉末節』に関心を持たずに、もっと患者全体を診るべきではないか」――。
・・・自傷行為の様態には、その若者の全体が象徴的に表現されています。そして当の若者は、感情語が退化し、自分の思いを言葉で伝えられるようになるまでには、大抵、長い時間を要するものなのです。というよりも、むしろ言葉で自分の思いを伝えられるようになること自体が、治療の目標といってもいいでしょう。だからこそ、私たち援助者は自傷行為から目を背けず、それについて若者に問いかける必要があるわけです。
 国際的な自傷臨床の趨勢は、援助者が自傷創を仔細に観察し、ある程度の好奇心をもって、自傷行為に関する質問を行うことを求める流れに向かっています。こうした丁寧なアセスメントが自傷者自身の気づきを促し、問題解決に向けての動機を掘り起こすことにつながり、ひいては、自殺行動を未然に回避するのにも役立つのです。そして、もしも自傷創を見せてもらえない場合には、援助者はいかにしたら自傷者から信頼を得られるか、いかにしたら治療場面が「安心して自分を表現できる場所」になるのかを真剣に考えなければならないといえるでしょう。
 私は、自傷行為は断じて「枝葉末節」などではないと考えています。「自傷行為」という、患者全体から見れば局所的にすぎない現象であっても、その傷の裂け目から、自傷者が抱える人生の暗黒が見えてくることがあります。現代の援助者は、自傷のグロテスクな傷跡から目をそらしてはならないのです。
(第8章 自傷行為のアセスメント)


 あーあともう一つ。第5章では、自傷アディクションの一種ととらえ、その転帰について書かれていて、そこには自傷行為がいかにして自殺企図に結びつくのかも明らかにされています。そこを踏まえて、第9章のマネジメント、対処法のところでは、「『死にたい』と言われたら」という項がありました。

1 告白に感謝する・・・略

2 「自殺はいけない」はいけない・・・略

3 「死にたい」の意味を考えながら傾聴する
 「死にたい」という告白は、「困難な問題のせいで『死にたい』くらいつらいが、もしもその問題が解決されれば、本当は生きたい」というメッセージと考えるべきです。自殺を考えている人は心理的視野狭窄の状態に陥っていて、自分が抱えている困難な問題には、まだ試していない解決策があることに思いいたれない状況にあります。そもそも、支援資源に関する情報を持ち合わせておらず、困難から「永遠に逃れられない」と感じている場合さえあるのです。
 したがって援助者の役割は、話を傾聴しながら、「この人の困難な問題とは何なのか?」「どのような支援資源が必要なのか?」「キーパーソンは誰なのか?」といったことに考えをめぐらせることです。その際、「その困難がありながらも、今日まで生き延びることができた理由は何であろうか?」という観点から質問を補ってみるのもよいでしょう。意外な事柄が支えとなっていたことが分かり、その若者の生命を守るために誰と連絡を取ればよいのか、どのような支援資源につなげればよいのか、ヒントが得られる可能性があります。


「その困難がありながらも、今日まで生き延びることができた理由は何であろうか?」――この視点は超重要だと思いました。これがあるとないとでは、きっと全然ちがう。