『気流の鳴る音 交響するコミューン』 真木悠介著、ちくま学芸文庫


 とりあえず、最初に読んだときにつけた付箋部分の引用です。太字は、本文傍点。

p.29 序 「共同体」のかなたへ

 唖者のことばをきく耳を周囲の人がもっているとき、唖者は唖者でない。唖者は周囲の人びとが聴く耳をもたないかぎりにおいて唖者である。"deco" style="font-weight:bold;">唖者とはひとつの関係性だ。唖者解放の問題は、「健康者」のつんぼ性からの解放の問題だ。奴隷の解放と主人の解放、第三世界の解放と帝国主義本国の解放、女の解放と男の解放、子どもの解放と親の解放、すべての解放が根源的な双対性をもつこととおなじに。

p.35 序 「共同体」のかなたへ

 このヤキ族の老人の生のイメージは、「うつくしい道をしずかに歩む」というナヴァホ族の讃歌と照応する。道のゆくさまは問われない。死すべきわれわれ人間にとって、どのような道もけっしてどこへもつれていきはしない。道がうつくしい道であるかどうか、それをしずかに晴れやかに歩むかどうか、心のある道ゆきであるか、それだけが問題なのだ。・・・市民社会の存立の原理としての利害の普遍的相剋性は、欲求の禁圧と制約によってではなく、欲求の解放と豊富化によってはじめて原理的にのりこえられうる。富や権力や栄光といったものへの執着を欲求の肥大としてではなく、欲求のまずしさとしてとらえること。解放されたゆたかな欲求を、これらの人びとの目にさえ魅惑的なものとして具体的に提示すること。生き方の魅力性によって敵対者たちを解放し、エゴイズムの体系としての市民社会の自明の前提をつぎつぎとつきくずすこと

p.54 I カラスの予言――人間主義の彼岸

 小さな植物にひざまずき、カラスの声に予兆をききとって畏れるドン・ファンの共感能力があれば、水俣病は起らなかったはずだ。人間主義ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられうる。
 水俣病とは、「わたしたち自身の中枢神経の病」(石牟礼道子)に他ならない。私たち自身が水俣で、そしてまたいたるところで病んでいる。視野狭窄と聴力障害、言語障害と平衡感覚の失調。テクノロジーの獲得した巨大な視界と対応能力は、喪われた世界と対応能力をけっして補償していはしない。

p.59 I カラスの予言――人間主義の彼岸

(貝紫の利用法をめぐって:メキシコのインディオは分泌液だけ手に採って貝は放したが、地中海や中国では貝殻を割って採取したために絶滅してしまっている)
 フェニキア人やローマ人にとって問題は貝の「使用法」であり、貝そのものは内在的価値をもたないマテリアル(材料=物質)にすぎなかった。メキシコのインディオたちにとっても、あるいは「長期的資源保存論」的な利害意識があったかもしれないけれども、そのような合理性もふくめて、貝を人間の共生(conviviality)の相手とする感覚がある。合理主義か非合理主義かというようなことではなくて、合理性の質の相違を確認しておきたいと思う。

p.69 I カラスの予言――人間主義の彼岸

(トナールとナワールについてのカスタネダの話)
 「<トナール>は話す(speaking)という仕方でだけ、世界をつくるんだ。それは何ひとつ創造しないし、変形さえしない、けれどもそれは世界をつくる。判断し、評価し、証言することがその機能だからさ。つまり<トナール>は、<トナール>の方式にのっとって目撃し、評価することによって世界をつくるんだ、<トナール>は何ものをも創造しない創造者なのだ。いいかえれば、<トナール>は世界を理解するルールをつくりあげるんだ。だから、言い方によっては、それは世界を創造するんだ。」
 現代哲学の用語をつかえば、<トナール>は人間における、間主体的(言語的・社会的)な「世界」の存立の機制そのものだ。
 「太初【はじめ】に言葉【ロゴス】ありき」とヨハネ福音書はいう。われわれの生きる「世界」は、「言葉【ロゴス】」によってはじめて構造化された「世界」として存立する。この「世界」存立の機制を、「言葉【ロゴス】は神なりき」とし、イエスの人格へと化肉する創造者として表象する西欧世界の心性と比して、これを何らかの動物または精霊の表象へと具象化するインディオたちのイメージを、隔絶して奇異なものということができようか。
 人間が自己の<トナール>とのかかわりにおいて、次第にその<トナール>にむかって自己疎外してゆくさまをドン・ファンはつぎのようにのべる。
「<トナール>はきわめて貴重なもの、つまりわれわれの存在そのものを保護する守護者だと言える。だから<トナール>の特徴は、やりかたが周到で嫉妬深いということだ。その仕事はわれわれの生の中でもとびぬけて重要な部面だものだから、それはわれわれの中でしまいに変質してしまい、守護者【ガーディアン】から看守【ガード】になってしまうのもふしぎはないのさ。」
「守護者【ガーディアン】ちは心が広く、理解力のあるものだ。これと反対に看守【ガード】の方は、心がせまくいつも目を光らせていて、いつでも専制的なのさ。<トナール>は本来、心が広い守護者でなければならんのに、われわれの中で狭量で専制的な看守になってしまうんだ。」

p.80 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

(ドン・ヘナロはカスタネダがメモをとるのを面白がり「親指がダメになるまで書け」と皮肉る)
・・・ドン・ヘナロの機智を、文字の世界への痛烈な皮肉と受けとることもできるし、事実ドン・ヘナロ自身の意図はそのことにあったかもしれない。けれどもたとえば、文字による知識や思想は空しい、といったたんなる自己否定は、文明世界の無反省な自己肯定の単純なうらがえしにすぎない。ここで提起されているのは、二つの世界の関係の問題であり、根本的に異った「世界」との出会いの方法の問題である。
 ドン・ヘナロはカスタネダの文字の世界の内的なゆたかさと可能性を見ない。それを親指の運動といった外面性に還元してながめるだけだ。われわれ自身がここでドン・ヘナロに同調し、文字の世界はまずしく無意味だなどと考える必要はない。ボードレールマルクスアインシュタインの切り拓く世界の奥行きは、<書くということ>の力なしにはありえなかった。<書くということ>の切り拓くこの世界の奥行きの総体を、ドン・ヘナロがその外面性に還元してこっけいがるとき、それはメスカリートと共にあるインディオたちの測り難い体験の世界の奥行きを、「ころげまわり」として外面からながめるだけの、われわれの世界の人びとのちょうど逆なのだ、ということの認識にこそ、ドン・ヘナロの「教え」の核心はある。近代社会の人間がかれらインディオの生きる世界を見ることをせず、外面性に還元してながめることで彼らを独断的に矮小化しているのとちょうどおなじに、ドン・ヘナロは文字の世界を矮小化する。

p.93 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

 現象学的な判断停止【エポケー】、人類学的な判断停止【エポケー】、経済学的な判断停止【エポケー】に共通する構造として、<世界を止める>、すなわち自己の生きる世界の自明性を解体するという作用がある。
 このことによってはじめて、I 異世界を理解すること、II 自世界自体の存立を理解すること、III 実践的に自己の「世界」を解放豊穣化することが可能となる。「世界」のあり方は「生」のあり方の対象的な対応に他ならないから、このIIIはいいかえれば、自己自身の生を根柢から解放し豊穣化することに他ならない。*
 *フッサールにとってはIIが、レヴィ=ストロースにとってはIをとおしてのIIが、マルクスにとってはIIをとおしてのIIIが、そしてカスタネダにとってはIをとおしてのIIIが、問題のアクセントとしてあっただろう。

p.96 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

・・・ドン・ファンカスタネダの、合理的に説明しようとする強迫を、ひとつの“indulgence”としてとらえる。つまり、合理主義的な世界の自己完結性、自足性を、ひとつの罠として、人間の意識と生き方をその鋳型におしこめる一つの閉された「世界」として把握する。
 「説明することはおまえをふけらせるだけだ。」といったたびたびでてくる奇妙な言い方もこれで納得がいく。
 この合理主義の強力な自己完結力への対抗力としてドン・ファンは幻覚性植物を用いる。それはいわば「理性からの覚醒剤」であり、日常的悟性への中毒からの解毒剤である。

p.97 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

 「明晰」とはひとつの盲信である。それは自分の現在もっている特定の説明体系(近代合理主義、等々)の普遍性への盲信である。それはたとえば、デモクリトス的、ニュートン的、アインシュタイン的等々の特定の歴史的、文化的世界像への自己呪縛である。
 人間は、<統合された意味づけ、位置づけの体系への要求>という固有の欲求につきうごかされて、この「明晰」の罠にとらえられる。

p.99 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

 コヨーテがしゃべるということをあたまから信じないのが、ふつうの人の「明晰」である。これにたいして、コヨーテがしゃべるということを信じてしまうことが、呪術師の「明晰」である。しかし両方の「世界」がともにカッコに入ったものであり、どちらも「現実」であるということ、「現実」とはもともとカッコに入ったものであること、このことを<見る>力が真の<明晰>である。
 「明晰」を克服したものがゆくべきところは、「不明晰」でなく、「世界を止め」て見る力をもった真の<明晰>である。
 「明晰」は「世界」に内没し、<明晰>は、「世界」を超える。
 「明晰」はひとつの耽溺=自足であり、<明晰>はひとつの<意志>である。
 <明晰>は自己の「明晰」が、「目の前の一点にすぎないこと」を明晰に自覚している。<明晰>とは、明晰さ自体の限界を知る明晰さ、対自化された明晰さである。

p.101 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

・・・ゾウの肌ざわり、ゾウのぬくもり、ゾウの呼吸の強さ、ゾウの毛のはえ具合について、われわれはゾウにさわったメクラたちより知ることがうすいであろう。われわれのゾウ像もまた、八つ目のゾウ像にすぎない。メクラたちの世界がそれぞれカッコに入った「世界」であるように、われわれの世界もまたカッコに入っている。にもかかわらずこの寓話が、一般にそういうふうには読まれないのは、目の世界が唯一の「客観的な」世界であるという偏見が、われわれの世界にあるからだ。われわれの文明はまずなによりも目の文明、目に依存する文明だ。
 このような<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。

p.107 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

(映画を見ることについて)
・・・われわれが無意識に、いつも焦点をあわせているので、<地>となった部分を無視しているからだ。<焦点をあわせる見方>においては、あらかじめ手持ちの枠組みにあるものだけが見える。「自分の知っていること」だけが見える。<焦点をあわせない見方>とは、予期せぬものへの自由な構えだ。それは世界の<地>の部分に関心を配って「世界」を豊穣化する。

p.151 IV 「心のある道」――<意味への疎外>からの解放

 カスタネダはなぜ幽霊なのか? ドン・ヘナロが出会った人びとはなぜ幽霊なのか? それは魂がここにないからだ。彼らの魂はどこにあるのか? 道のかなたに、「目的地」にある。彼らは道を通ってはいるが、その道を歩いてはいない。
 ドン・ファンは歩きながら話をすることをきらう。カスタネダが話しかけると、いったん立止まり、話をおわってからまた歩きだす。ドン・ファンにとって歩くということが、それ自体として充実しきっているからだろう。
 行動の「意味」がその行動の結果へと外化してたてられるとき、それは行動そのものを意味深いものとするための媒介として把握され、意味がふたたび行動に内化するのでないかぎり、行動それ自体はその意味を疎外された空虚なものとなる。生きることの「意味」がその何らかの「成果」へと外化してたてられるとき、この生活の「目標」は生そのものを豊穣化するための媒介として把握され、意味がふたたび生きることに内在化するのでないかぎり、生それ自体はその意味を疎外された空虚なものとなる。

p.152 IV 「心のある道」――<意味への疎外>からの解放

 いうまでもなく真に明晰な意識にとっては、われわれすべては死刑囚であり、人類の総体もまた死刑囚である。
 人間の日常的な「明晰さ」は自己自身の死と、とりわけ人類の死を意識から排除するという、自己欺瞞の砂上に構築されている。存在するものにたいするわれわれの感覚の拡大は、べつに意識を透明化する特殊な薬剤をもちいなくても、この自己欺瞞をつきくずす明晰さのみをとおしても獲得しうるはずだ。それは生きることの意味をその場で内在化することなしに、将来する「結果」に向って順送りしていくかぎり年月はむなしいということを、簡明にみせてくれるからだ。
 しかしそのとき、自己と世界とが永遠で絶対的なものだと信じこんでいたころの、天動説的に素朴な現実性の感覚はもはや永久に回収できない。たとえその一歩手前までたどりつくことができるとしても。

p.168 結 根をもつことと翼をもつこと

 ドン・ファンはわれわれを<まなざしの地獄>としての社会性の呪縛から解放する。しかし同時に、それはわれわれの共同性からの疎外ではないだろうか?
 執着するもののない生活とは、自由だがさびしいものではないのか?

p.173 結 根をもつことと翼をもつこと

 しかしもしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。円天井は天上からでなく、大地によって支えられなければならない。
 アメリカ原住民たちは白人が彼らを奪い、彼らを捕え、彼らを虐殺したことよりも以上に、白人による自然の破壊にたいして許すことのないいきどおりを抱いたという。それはキリスト教文明の人びとにとっての「神」よりもいっそう深い意味で、彼らの生と死とを支える大地だったのだ。その解体は彼らの生を奪うだけでなく、その死をも奪ってしまった。

p.179 結 根をもつことと翼をもつこと

 「全世界をわれに与えよ」と谷川雁がかつていったように、コミュニズムとは所有の否定ではなく、万人が全世界を所有することに他ならなかった。しかしそのことは、「所有」が排他性を原理とするかぎり論理的に不可能である。
 「どこにいようと、大地のおかげで生きていけるのさ。」というドン・ファンの生き方は、根をもつことと翼をもつことの二律背反を端的に超えていると同時に、けれどもそれは、ある一定の客観的な「世界」のあり方を前提している。
 このことは反転してまた、根をもつことと翼をもつことの二律背反が、どのような客観的な「世界」のあり方を地として前提しているかということを明るみに出す。
 二律背反はわれわれの意識のうちに、あるいは共同の幻想のうちにだけあるのではなく、われわれが間主体的に、われわれ自身の行動と生き方をとおして、たえずあらたに存立せしめているひとつの歴史的な世界の構造のうちに、客観的に存在している。
 カスタネダがメキシコ原野の丘の頂上で、「見える限りの土地」を自分のものとするとき、それはなるほど、ある山に登り、ある方角に見える限りの土地の所有権を主張したスペイン人たちとおなじだ。ただ両者の小さなちがいは、その所有に排他性をもたせたか否かということだ。排他的に土地が分割されつくすかぎり、エリヒオのようなヤキ族にとって唯一の生きる糧である「大地がただでさしだしてくれるもの」さえ、もはや存在しないことになる。透明な存在は生きられないのだ。

p.190 骨とまぼろし(メキシコ)

 インディオはメキシコの街に、召し使いとか行商人とか車洗いの下男などとして流れこんでくる。アパートやビルの屋上はこれらの奉公人たちの住むスペースになっている。六階にあった私の研究室からみると、まわりは低い建物ばかりなので、この首都のまん中なのにいちめんにインディオたちの世界だ。屋根を熱帯の木の葉でふいたりして、下に住む白人たちの知らない世界を形成している。雲が血の色に染まる時刻には、若者がこちらのビルの屋上で、あちらのビルの屋上の若い娘に大きく手をふって呼びかけている。幾百年の昔にも、やはり夕陽を背景に若者たちや娘たちが、このようにあちらの丘、こちらの丘から呼び交わしていたはずである。今征服者を自認する近代文明の墓標のような四角い丘、直線の谷のすべてをつつみこむ薄暮の底から、地のシルエットたちが立ち上がり呼び交わしていることとおなじに。

p.192 ファベーラの薔薇(ブラジル)

・・・魔術はおそらく魔術師が作るのではない。魔術をあらかじめ帯電した世界があるとき、それがたとえばなんでもない異郷人のような材料のまわりに凝集して、魔術師を結晶させるのだ。

p.195 ファベーラの薔薇(ブラジル)

 三日四晩の恍惚のために一年を生きるファベーラの陽気なカリオカたちは、このインドの歌のない殉教者たちとちょうど反対の極から呼応する。一生にひとつの<葬>と一年にひとつの<祭り>と。二つの対照的な世界は、働きつづけることのかなたにどのような転生も恍惚もないわれわれの世界の虚無から、最もとおい二つの極地だ。

p.207 交響するコミューン

 世界の諸事物の帯電する固有の意味の一つ一つは剥奪され解体されて、相互に交換可能な価値として抽象され計量化される。
 個々の行為や関係のうちに内在する意味への感覚の喪失として特色づけられるこれらの過程は日常的な実践への埋没によって虚無から逃れでるのでないならば、生のたしかさの外的な支えとしての、なんらかの<人生の目的>を必要とする。
 それが近代の実践理性の要請としての「神」(プロテスタンティズム!)であれ、その不全なる等価としての「天皇」(立身出世主義!)であれ、またはむきだしの富や権力や名声(各種マニュアル!)であれ、心まずしき近代人の生の意味への感覚を外部から支えようとするこれらいっさいの価値体系は、精神が明晰であればあるほど、それ自体の根拠への問いにさらされざるをえず、しかもこの問いが合理主義自体によっては答えられぬというジレンマに直面せずにはいないから、このような価値体系は、主体が明晰であればあるほど、根源的に不吉なニヒリズムの影におびやかされざるをえない。
 ここにいっさいの幻想を排するがゆえに、逆に幻想なくしては存立しえず、しかもこのみずからを存立せしめる幻想を、みずから解体してゆかざるをえない、近代合理主義の逆説をみることができる。
 われわれはこの荒廃から、幻想のための幻想といった自己欺瞞に後退するのでなしに、どこに出口を見出すことができるだろうか。

p.212 交響するコミューン

 すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊饒にとりもどすことにしかない。

p.218 交響するコミューン

・・・市民社会の人間像が自己の欲求の解放ぬきにコミューンを形成しようとするとき、それはファシズムスターリニズムに転化するだろう。
 なぜならば相克する無数のエゴの「契約」をその原理とする市民社会は、他者の自由への相互のおそれと、したがって相互に他者への支配の欲求を、その秘められた動因としつつ、各人のこの秘められた欲求の相互抑制(checks and balances)の上に存在するからである。したがってこの欲求の構造の変革ぬきに、連帯や統一という名のもとに、市民社会の相互抑制と異質性への承認とが否定されるならば、普遍を詐称する「指導部」の権力意思が、おそらくはその指導部自身をも欺いて貫徹することによって、耐えがたい自由の圧殺が現出することは必然である。
 コミューン的な関係をその原理とする歴史が普遍的にひらかれるまえに、先駆的に形成される個別コミューンの重要な課題の一つは、それがコミューンというものを、ファシズムスターリニズムに転化せしめることのない、そのような主体とその関係性とを、――すなわち新しい欲求と感受性とを――日常のなかで創出していくことだろう。

p.223 交響するコミューン

 われわれの日々の生活は、未来にある目標によって充実することもできるし、現在における交感によって充実することもできる。すなわちわれわれの<今、ここにある自分>の生は、その内に未来を抱くことで充たされることもできるし、他者(人びとや自然)を抱くことで充たされることもまたできる。

[本]『気流の鳴る音 交響するコミューン』 真木悠介著、ちくま学芸文庫
 とりあえず、最初に読んだときにつけた付箋部分の引用です。太字は、本文傍点。

p.29 序 「共同体」のかなたへ

 唖者のことばをきく耳を周囲の人がもっているとき、唖者は唖者でない。唖者は周囲の人びとが聴く耳をもたないかぎりにおいて唖者である。"deco" style="font-weight:bold;">唖者とはひとつの関係性だ。唖者解放の問題は、「健康者」のつんぼ性からの解放の問題だ。奴隷の解放と主人の解放、第三世界の解放と帝国主義本国の解放、女の解放と男の解放、子どもの解放と親の解放、すべての解放が根源的な双対性をもつこととおなじに。

p.35 序 「共同体」のかなたへ

 このヤキ族の老人の生のイメージは、「うつくしい道をしずかに歩む」というナヴァホ族の讃歌と照応する。道のゆくさまは問われない。死すべきわれわれ人間にとって、どのような道もけっしてどこへもつれていきはしない。道がうつくしい道であるかどうか、それをしずかに晴れやかに歩むかどうか、心のある道ゆきであるか、それだけが問題なのだ。・・・市民社会の存立の原理としての利害の普遍的相剋性は、欲求の禁圧と制約によってではなく、欲求の解放と豊富化によってはじめて原理的にのりこえられうる。富や権力や栄光といったものへの執着を欲求の肥大としてではなく、欲求のまずしさとしてとらえること。解放されたゆたかな欲求を、これらの人びとの目にさえ魅惑的なものとして具体的に提示すること。生き方の魅力性によって敵対者たちを解放し、エゴイズムの体系としての市民社会の自明の前提をつぎつぎとつきくずすこと

p.54 I カラスの予言――人間主義の彼岸

 小さな植物にひざまずき、カラスの声に予兆をききとって畏れるドン・ファンの共感能力があれば、水俣病は起らなかったはずだ。人間主義ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられうる。
 水俣病とは、「わたしたち自身の中枢神経の病」(石牟礼道子)に他ならない。私たち自身が水俣で、そしてまたいたるところで病んでいる。視野狭窄と聴力障害、言語障害と平衡感覚の失調。テクノロジーの獲得した巨大な視界と対応能力は、喪われた世界と対応能力をけっして補償していはしない。

p.59 I カラスの予言――人間主義の彼岸

(貝紫の利用法をめぐって:メキシコのインディオは分泌液だけ手に採って貝は放したが、地中海や中国では貝殻を割って採取したために絶滅してしまっている)
 フェニキア人やローマ人にとって問題は貝の「使用法」であり、貝そのものは内在的価値をもたないマテリアル(材料=物質)にすぎなかった。メキシコのインディオたちにとっても、あるいは「長期的資源保存論」的な利害意識があったかもしれないけれども、そのような合理性もふくめて、貝を人間の共生(conviviality)の相手とする感覚がある。合理主義か非合理主義かというようなことではなくて、合理性の質の相違を確認しておきたいと思う。

p.69 I カラスの予言――人間主義の彼岸

(トナールとナワールについてのカスタネダの話)
 「<トナール>は話す(speaking)という仕方でだけ、世界をつくるんだ。それは何ひとつ創造しないし、変形さえしない、けれどもそれは世界をつくる。判断し、評価し、証言することがその機能だからさ。つまり<トナール>は、<トナール>の方式にのっとって目撃し、評価することによって世界をつくるんだ、<トナール>は何ものをも創造しない創造者なのだ。いいかえれば、<トナール>は世界を理解するルールをつくりあげるんだ。だから、言い方によっては、それは世界を創造するんだ。」
 現代哲学の用語をつかえば、<トナール>は人間における、間主体的(言語的・社会的)な「世界」の存立の機制そのものだ。
 「太初【はじめ】に言葉【ロゴス】ありき」とヨハネ福音書はいう。われわれの生きる「世界」は、「言葉【ロゴス】」によってはじめて構造化された「世界」として存立する。この「世界」存立の機制を、「言葉【ロゴス】は神なりき」とし、イエスの人格へと化肉する創造者として表象する西欧世界の心性と比して、これを何らかの動物または精霊の表象へと具象化するインディオたちのイメージを、隔絶して奇異なものということができようか。
 人間が自己の<トナール>とのかかわりにおいて、次第にその<トナール>にむかって自己疎外してゆくさまをドン・ファンはつぎのようにのべる。
「<トナール>はきわめて貴重なもの、つまりわれわれの存在そのものを保護する守護者だと言える。だから<トナール>の特徴は、やりかたが周到で嫉妬深いということだ。その仕事はわれわれの生の中でもとびぬけて重要な部面だものだから、それはわれわれの中でしまいに変質してしまい、守護者【ガーディアン】から看守【ガード】になってしまうのもふしぎはないのさ。」
「守護者【ガーディアン】ちは心が広く、理解力のあるものだ。これと反対に看守【ガード】の方は、心がせまくいつも目を光らせていて、いつでも専制的なのさ。<トナール>は本来、心が広い守護者でなければならんのに、われわれの中で狭量で専制的な看守になってしまうんだ。」

p.80 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

(ドン・ヘナロはカスタネダがメモをとるのを面白がり「親指がダメになるまで書け」と皮肉る)
・・・ドン・ヘナロの機智を、文字の世界への痛烈な皮肉と受けとることもできるし、事実ドン・ヘナロ自身の意図はそのことにあったかもしれない。けれどもたとえば、文字による知識や思想は空しい、といったたんなる自己否定は、文明世界の無反省な自己肯定の単純なうらがえしにすぎない。ここで提起されているのは、二つの世界の関係の問題であり、根本的に異った「世界」との出会いの方法の問題である。
 ドン・ヘナロはカスタネダの文字の世界の内的なゆたかさと可能性を見ない。それを親指の運動といった外面性に還元してながめるだけだ。われわれ自身がここでドン・ヘナロに同調し、文字の世界はまずしく無意味だなどと考える必要はない。ボードレールマルクスアインシュタインの切り拓く世界の奥行きは、<書くということ>の力なしにはありえなかった。<書くということ>の切り拓くこの世界の奥行きの総体を、ドン・ヘナロがその外面性に還元してこっけいがるとき、それはメスカリートと共にあるインディオたちの測り難い体験の世界の奥行きを、「ころげまわり」として外面からながめるだけの、われわれの世界の人びとのちょうど逆なのだ、ということの認識にこそ、ドン・ヘナロの「教え」の核心はある。近代社会の人間がかれらインディオの生きる世界を見ることをせず、外面性に還元してながめることで彼らを独断的に矮小化しているのとちょうどおなじに、ドン・ヘナロは文字の世界を矮小化する。

p.93 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

 現象学的な判断停止【エポケー】、人類学的な判断停止【エポケー】、経済学的な判断停止【エポケー】に共通する構造として、<世界を止める>、すなわち自己の生きる世界の自明性を解体するという作用がある。
 このことによってはじめて、I 異世界を理解すること、II 自世界自体の存立を理解すること、III 実践的に自己の「世界」を解放豊穣化することが可能となる。「世界」のあり方は「生」のあり方の対象的な対応に他ならないから、このIIIはいいかえれば、自己自身の生を根柢から解放し豊穣化することに他ならない。*
 *フッサールにとってはIIが、レヴィ=ストロースにとってはIをとおしてのIIが、マルクスにとってはIIをとおしてのIIIが、そしてカスタネダにとってはIをとおしてのIIIが、問題のアクセントとしてあっただろう。

p.96 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

・・・ドン・ファンカスタネダの、合理的に説明しようとする強迫を、ひとつの“indulgence”としてとらえる。つまり、合理主義的な世界の自己完結性、自足性を、ひとつの罠として、人間の意識と生き方をその鋳型におしこめる一つの閉された「世界」として把握する。
 「説明することはおまえをふけらせるだけだ。」といったたびたびでてくる奇妙な言い方もこれで納得がいく。
 この合理主義の強力な自己完結力への対抗力としてドン・ファンは幻覚性植物を用いる。それはいわば「理性からの覚醒剤」であり、日常的悟性への中毒からの解毒剤である。

p.97 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

 「明晰」とはひとつの盲信である。それは自分の現在もっている特定の説明体系(近代合理主義、等々)の普遍性への盲信である。それはたとえば、デモクリトス的、ニュートン的、アインシュタイン的等々の特定の歴史的、文化的世界像への自己呪縛である。
 人間は、<統合された意味づけ、位置づけの体系への要求>という固有の欲求につきうごかされて、この「明晰」の罠にとらえられる。

p.99 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

 コヨーテがしゃべるということをあたまから信じないのが、ふつうの人の「明晰」である。これにたいして、コヨーテがしゃべるということを信じてしまうことが、呪術師の「明晰」である。しかし両方の「世界」がともにカッコに入ったものであり、どちらも「現実」であるということ、「現実」とはもともとカッコに入ったものであること、このことを<見る>力が真の<明晰>である。
 「明晰」を克服したものがゆくべきところは、「不明晰」でなく、「世界を止め」て見る力をもった真の<明晰>である。
 「明晰」は「世界」に内没し、<明晰>は、「世界」を超える。
 「明晰」はひとつの耽溺=自足であり、<明晰>はひとつの<意志>である。
 <明晰>は自己の「明晰」が、「目の前の一点にすぎないこと」を明晰に自覚している。<明晰>とは、明晰さ自体の限界を知る明晰さ、対自化された明晰さである。

p.101 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

・・・ゾウの肌ざわり、ゾウのぬくもり、ゾウの呼吸の強さ、ゾウの毛のはえ具合について、われわれはゾウにさわったメクラたちより知ることがうすいであろう。われわれのゾウ像もまた、八つ目のゾウ像にすぎない。メクラたちの世界がそれぞれカッコに入った「世界」であるように、われわれの世界もまたカッコに入っている。にもかかわらずこの寓話が、一般にそういうふうには読まれないのは、目の世界が唯一の「客観的な」世界であるという偏見が、われわれの世界にあるからだ。われわれの文明はまずなによりも目の文明、目に依存する文明だ。
 このような<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。

p.107 II 「世界を止める」――<明晰の罠>からの解放

(映画を見ることについて)
・・・われわれが無意識に、いつも焦点をあわせているので、<地>となった部分を無視しているからだ。<焦点をあわせる見方>においては、あらかじめ手持ちの枠組みにあるものだけが見える。「自分の知っていること」だけが見える。<焦点をあわせない見方>とは、予期せぬものへの自由な構えだ。それは世界の<地>の部分に関心を配って「世界」を豊穣化する。

p.151 IV 「心のある道」――<意味への疎外>からの解放

 カスタネダはなぜ幽霊なのか? ドン・ヘナロが出会った人びとはなぜ幽霊なのか? それは魂がここにないからだ。彼らの魂はどこにあるのか? 道のかなたに、「目的地」にある。彼らは道を通ってはいるが、その道を歩いてはいない。
 ドン・ファンは歩きながら話をすることをきらう。カスタネダが話しかけると、いったん立止まり、話をおわってからまた歩きだす。ドン・ファンにとって歩くということが、それ自体として充実しきっているからだろう。
 行動の「意味」がその行動の結果へと外化してたてられるとき、それは行動そのものを意味深いものとするための媒介として把握され、意味がふたたび行動に内化するのでないかぎり、行動それ自体はその意味を疎外された空虚なものとなる。生きることの「意味」がその何らかの「成果」へと外化してたてられるとき、この生活の「目標」は生そのものを豊穣化するための媒介として把握され、意味がふたたび生きることに内在化するのでないかぎり、生それ自体はその意味を疎外された空虚なものとなる。

p.152 IV 「心のある道」――<意味への疎外>からの解放

 いうまでもなく真に明晰な意識にとっては、われわれすべては死刑囚であり、人類の総体もまた死刑囚である。
 人間の日常的な「明晰さ」は自己自身の死と、とりわけ人類の死を意識から排除するという、自己欺瞞の砂上に構築されている。存在するものにたいするわれわれの感覚の拡大は、べつに意識を透明化する特殊な薬剤をもちいなくても、この自己欺瞞をつきくずす明晰さのみをとおしても獲得しうるはずだ。それは生きることの意味をその場で内在化することなしに、将来する「結果」に向って順送りしていくかぎり年月はむなしいということを、簡明にみせてくれるからだ。
 しかしそのとき、自己と世界とが永遠で絶対的なものだと信じこんでいたころの、天動説的に素朴な現実性の感覚はもはや永久に回収できない。たとえその一歩手前までたどりつくことができるとしても。

p.168 結 根をもつことと翼をもつこと

 ドン・ファンはわれわれを<まなざしの地獄>としての社会性の呪縛から解放する。しかし同時に、それはわれわれの共同性からの疎外ではないだろうか?
 執着するもののない生活とは、自由だがさびしいものではないのか?

p.173 結 根をもつことと翼をもつこと

 しかしもしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。円天井は天上からでなく、大地によって支えられなければならない。
 アメリカ原住民たちは白人が彼らを奪い、彼らを捕え、彼らを虐殺したことよりも以上に、白人による自然の破壊にたいして許すことのないいきどおりを抱いたという。それはキリスト教文明の人びとにとっての「神」よりもいっそう深い意味で、彼らの生と死とを支える大地だったのだ。その解体は彼らの生を奪うだけでなく、その死をも奪ってしまった。

p.179 結 根をもつことと翼をもつこと

 「全世界をわれに与えよ」と谷川雁がかつていったように、コミュニズムとは所有の否定ではなく、万人が全世界を所有することに他ならなかった。しかしそのことは、「所有」が排他性を原理とするかぎり論理的に不可能である。
 「どこにいようと、大地のおかげで生きていけるのさ。」というドン・ファンの生き方は、根をもつことと翼をもつことの二律背反を端的に超えていると同時に、けれどもそれは、ある一定の客観的な「世界」のあり方を前提している。
 このことは反転してまた、根をもつことと翼をもつことの二律背反が、どのような客観的な「世界」のあり方を地として前提しているかということを明るみに出す。
 二律背反はわれわれの意識のうちに、あるいは共同の幻想のうちにだけあるのではなく、われわれが間主体的に、われわれ自身の行動と生き方をとおして、たえずあらたに存立せしめているひとつの歴史的な世界の構造のうちに、客観的に存在している。
 カスタネダがメキシコ原野の丘の頂上で、「見える限りの土地」を自分のものとするとき、それはなるほど、ある山に登り、ある方角に見える限りの土地の所有権を主張したスペイン人たちとおなじだ。ただ両者の小さなちがいは、その所有に排他性をもたせたか否かということだ。排他的に土地が分割されつくすかぎり、エリヒオのようなヤキ族にとって唯一の生きる糧である「大地がただでさしだしてくれるもの」さえ、もはや存在しないことになる。透明な存在は生きられないのだ。

p.190 骨とまぼろし(メキシコ)

 インディオはメキシコの街に、召し使いとか行商人とか車洗いの下男などとして流れこんでくる。アパートやビルの屋上はこれらの奉公人たちの住むスペースになっている。六階にあった私の研究室からみると、まわりは低い建物ばかりなので、この首都のまん中なのにいちめんにインディオたちの世界だ。屋根を熱帯の木の葉でふいたりして、下に住む白人たちの知らない世界を形成している。雲が血の色に染まる時刻には、若者がこちらのビルの屋上で、あちらのビルの屋上の若い娘に大きく手をふって呼びかけている。幾百年の昔にも、やはり夕陽を背景に若者たちや娘たちが、このようにあちらの丘、こちらの丘から呼び交わしていたはずである。今征服者を自認する近代文明の墓標のような四角い丘、直線の谷のすべてをつつみこむ薄暮の底から、地のシルエットたちが立ち上がり呼び交わしていることとおなじに。

p.192 ファベーラの薔薇(ブラジル)

・・・魔術はおそらく魔術師が作るのではない。魔術をあらかじめ帯電した世界があるとき、それがたとえばなんでもない異郷人のような材料のまわりに凝集して、魔術師を結晶させるのだ。

p.195 ファベーラの薔薇(ブラジル)

 三日四晩の恍惚のために一年を生きるファベーラの陽気なカリオカたちは、このインドの歌のない殉教者たちとちょうど反対の極から呼応する。一生にひとつの<葬>と一年にひとつの<祭り>と。二つの対照的な世界は、働きつづけることのかなたにどのような転生も恍惚もないわれわれの世界の虚無から、最もとおい二つの極地だ。

p.207 交響するコミューン

 世界の諸事物の帯電する固有の意味の一つ一つは剥奪され解体されて、相互に交換可能な価値として抽象され計量化される。
 個々の行為や関係のうちに内在する意味への感覚の喪失として特色づけられるこれらの過程は日常的な実践への埋没によって虚無から逃れでるのでないならば、生のたしかさの外的な支えとしての、なんらかの<人生の目的>を必要とする。
 それが近代の実践理性の要請としての「神」(プロテスタンティズム!)であれ、その不全なる等価としての「天皇」(立身出世主義!)であれ、またはむきだしの富や権力や名声(各種マニュアル!)であれ、心まずしき近代人の生の意味への感覚を外部から支えようとするこれらいっさいの価値体系は、精神が明晰であればあるほど、それ自体の根拠への問いにさらされざるをえず、しかもこの問いが合理主義自体によっては答えられぬというジレンマに直面せずにはいないから、このような価値体系は、主体が明晰であればあるほど、根源的に不吉なニヒリズムの影におびやかされざるをえない。
 ここにいっさいの幻想を排するがゆえに、逆に幻想なくしては存立しえず、しかもこのみずからを存立せしめる幻想を、みずから解体してゆかざるをえない、近代合理主義の逆説をみることができる。
 われわれはこの荒廃から、幻想のための幻想といった自己欺瞞に後退するのでなしに、どこに出口を見出すことができるだろうか。

p.212 交響するコミューン

 すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊饒にとりもどすことにしかない。

p.218 交響するコミューン

・・・市民社会の人間像が自己の欲求の解放ぬきにコミューンを形成しようとするとき、それはファシズムスターリニズムに転化するだろう。
 なぜならば相克する無数のエゴの「契約」をその原理とする市民社会は、他者の自由への相互のおそれと、したがって相互に他者への支配の欲求を、その秘められた動因としつつ、各人のこの秘められた欲求の相互抑制(checks and balances)の上に存在するからである。したがってこの欲求の構造の変革ぬきに、連帯や統一という名のもとに、市民社会の相互抑制と異質性への承認とが否定されるならば、普遍を詐称する「指導部」の権力意思が、おそらくはその指導部自身をも欺いて貫徹することによって、耐えがたい自由の圧殺が現出することは必然である。
 コミューン的な関係をその原理とする歴史が普遍的にひらかれるまえに、先駆的に形成される個別コミューンの重要な課題の一つは、それがコミューンというものを、ファシズムスターリニズムに転化せしめることのない、そのような主体とその関係性とを、――すなわち新しい欲求と感受性とを――日常のなかで創出していくことだろう。

p.223 交響するコミューン

 われわれの日々の生活は、未来にある目標によって充実することもできるし、現在における交感によって充実することもできる。すなわちわれわれの<今、ここにある自分>の生は、その内に未来を抱くことで充たされることもできるし、他者(人びとや自然)を抱くことで充たされることもまたできる。