077:サイレント・ガーデン〜滞院報告・キャロティンの祭典

サイレント・ガーデン―滞院報告・キャロティンの祭典
サイレント・ガーデン―滞院報告・キャロティンの祭典武満 徹

新潮社 1999-10
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 やっと手に入れ、読むことができました。ずっと気になっていた本です。武満徹さん、最晩年のプライベートなメモです。
 この本は二つのパートから成っていて、3分の2ほどが左開きの「滞院報告」、残りが後ろから右開きでめくる「キャロティンの祭典」です。「滞院報告」は間質性肺炎と膀胱がんの治療のために入院していた間の日記。「キャロティンの祭典」は、入院中にスケッチブックに描いていたイラスト付きレシピでここは4色刷りになっています。
 で、1冊にまとめて『サイレント・ガーデン』。中を読むとわかりますが、入院中に武満さんが構想していた新しい曲のタイトルの一つです。サイレント・ガーデンとは、静かな真昼の庭のこと。夜ではなく真昼です。武満さんが入院していたのは、夏の盛りをはさんだ半年間でした。病室の窓から見える真夏の庭の沈黙、わかるような気がします。武満さんはこの中で、夜の庭は内に向かって語っており、朝の庭は活気があり、ざわめいていると書いています。
 難しい病状で困難な治療が続いた様子がわかります。大変だっただろうと思う。それを比較的、淡々と綴っています。つらさや苦しさは、生きることのデフォルト。もちろん愉しさも。
 経過としては次のようになります。
 1995年5月31日に入院。化学療法3クール。
 9月4日、一時退院。
 9月11日、間質性肺炎悪化で再入院。
 9月21日、高原音楽祭のため一時退院。
 9月26日、再入院。
 10月5日、退院。日記はここまで。
 1996年1月13日、発熱で再入院。がん転移が見つかる。
 1月30日、病院から外出してオペラシティの発足パーティに出席。
 2月20日、永眠。

 以下、抜き書きです。

谷川俊太郎による前辞「飾り気のない自画像」)
――死と隣り合わせでいることで深まる生の感覚を、武満はつかんでいたに違いない。そういう武満はたとえ身体が病に冒されていたとしても、「健康」だった。彼の音楽にもそれを聞きとることが出来ると思う。人の尺度を超えた巨視と微視の織りなすテクスチュア、個の意識を超える時の流れのような旋律と精妙なリズム、生の尽きるところにある静けさ=死ではなく、その絶えざる一部である静けさ。
 <中略>
 初めて会ったときも、最後に会ったときも武満は病院のベッドの上だったが、彼の内なる「健康」は、身体の病によっても損なわれることはなかった。それがこの日記を明るく豊かなものにしている。立ち去った後も、武満は私たちとともにいると感じさせてくれる。「明日の朝はもうこれを書くまい。/晴れてくれればいいが。」と日記は結ばれているが、この二行は彼の音楽のコーダのように美しく響く。彼はまたこうも書き残してくれているのだ。「[希望]は持ちこたえていくことで実体を無限に確実なものにし、終わりはない。」武満の生のレシピに、「希望」と「歓び」の深い味わいを欠かすことは出来ない。 

6月10日(土)
45.0kg
 曇り。重い灰色のガスが街をつつんでいる。都会の朝は醜悪だ。

何度も都会の病院について、閉塞的な記述をしています。病院の環境は大切。

6月13日(火)
 朝より雨模様。昨夜は寝つかれず。一昨日の夕から便無し。看護婦さんに言って下剤使うか。食事はすすむ。体力つけたいのでいくらか無理しているが、幸いなことに吐き気なくこの調子が続くといいが。
 エイトケンから長文のFax。なな子さんに回答の要点伝えなければならない。
 耐えなければ 耐えなければ。
 なな子さん、マキ、あさか来てくれる。あさかの差入れソーメン食す。美味。マキ、京味燈のトロロ持って来てくれる。なな子さんは小ぶりの日まわりの綺麗なブーケ。何れも心のこもった品々。ありがたし。

つらいこともいいことも共存する日々。闘病中はどちらも際だって感じられるものだ。

6月27日(火)
<略>
『沈黙の庭』Silent Garden 一考する
(この題比較的気に入った。)
 早朝の庭では樹陰から夜がすばやく立ち去ろうとしている。鳥たちが歓びのうたをうたいだす。太陽がおくればせに射しこむ。この時庭は他の時間帯よりも饒舌に話し出す。外に向かって。
 夜の庭は思索的である。宇宙の気配にじっと耳を傾けている。深夜は目覚めている鳥や獣たちの行方を、夜の手の迷路のような掌紋のなかにどこまでも追っている。夜の庭は語っている。内に向かって。
 真昼の庭は沈黙している。太陽は天頂に、物は影を喪う。外界の賑わいとは反対に、この時庭は、巨大な沈黙の相貌【すがた】を見せているのだが、人間【ひと】はそれに気付かない。真昼の庭は沈黙している。世界を拒むように。

9月13日(水)
<略>
 今夜は昨夜よりよくやすめるといい。
 松本からはや三晩がすぎる。結局、都合半年、病気と馴染んで、正当に老いの苦(楽)界に這入って行く。峠はとうに過ぎていた。どの辺りだったのだろう?
 下り坂 足踏みしめる
          未練坂

9月27日(水)
 病院へ戻るとなぜか病人になってしまう。
 尿を採ったり、採血したり、血圧を測ったり便通の回数を問われたり。歩行はごく少くなり、体温計をしじゅう脇にはさんでしまう。状態はまあまあ。午後コロムビアスタジオへ外出する。セリさん、なな子さん来ている。いいアルバムできそうだ。夕食は帰院して摂る。あさかの話では午後Bobが見舞いに来たかもしれないとのこと。困った。やや腹がはる。ガスが溜まっている。

10月4日(水)
<略>
 ここに記した病院での想念は、きっと、ふだんの生活に戻ってみれば、変なものだろう。飯を喰うにもたえず何か意識させられるし、何でもない排便や小用までが重大なことに感じられて不自然このうえない。普通であることはたぶん一瞬もなかった。急にはむりかもしれないが、生活を普通に戻して気をつけよう。
 明日の朝はもうこれを書くまい。
 晴れてくれればいいが。

(妻・浅香さんによる「あとがき」から)
 翌十九日、病院に行くと、いつもすぐ起き上るのに、その日はベッドに横になったまま少しだるそうな様子でした。
 昨日は降りしきる雪を窓越しに眺めながらベッドで横になったまま、ラジオのFM放送でバッハの『マタイ受難曲』を聴いたというのです。そして、「バッハはほんとうにすごいね。なんだか身心ともに癒されたような気がする」と呟きました。武満はかねてから新しい作品にとりかかる前に、『マタイ受難曲』のなかの好きなコラールや、最終曲などをピアノで弾くというのが長年の儀式のようになっていました。
 たまたま雪が降ったために、そして見舞客も私もいなかったために、静かな病室で独り大好きだった『マタイ』を全曲聴けたこと、私は何か大きな恩寵のようなものを思わずにはおられません。
 その最後になった夜、彼はきちんと椅子に座って「おかゆが美味しく炊けているんだよ」と云いながら病院食をほとんど残さず頂きました。「じゃ、また明日ね」と云って手を振って別れました。
<略>
 死の前々日、『マタイ』を聴いたとき、それまで病いと必死に闘ってきましたが、意識の底のどこかで自分の病状の深刻さを自覚し、もう自然のままに、安らかに大いなるものの手に生命を委ねる心境になったのではないでしょうか。『マタイ』を聴いたことで、決して諦めとか絶望というようなことではなく、私などには思いも及ばぬ深い安息を与えられ、それが静かに旅立って行くための道しるべとなったのではないでしょうか。

 「キャロティンの祭典」については「料理」カテゴリーに別枠にして抜粋します。