脳卒中を生きる意味

 週末に〆切の紹介文を書くために、5冊ほど読まなくちゃなのだが、1冊しか読み終わってない。やばい〜


脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学
細田 満和子
青海社
売り上げランキング: 55387
おすすめ度の平均: 5.0
5 「障害受容」を超えて再び生きるために


 コレいいよ、って周りの人の評価を聞いてから新刊ページに紹介するのは、なんかズルイ気もするのだが、編集部の人にも読んでもらおうと思って、この本については、メイン紹介欄でと押し切った。

 で、読んでいるのだが、これがなかなか大変で、この本が進まないせいで他が読めていないという次第。と、仕事が滞っていることのいちおう言い訳。そこで、読みながら気になるところをただただ引用していこうか、と。ま、気が向けば、ちょっと一言メモなんかも書いてみたりするかもしれない。

 1995年に脳卒中を発症した鶴見和子は、脳卒中からの回復を「いったん死んで命甦る。それから魂を活性化する。そして、その活性化された魂によって、新しい人生を切り開く」こととして、「回生」と概念化した。今、ここにある障害を持つ身体や実際に営まれている現実の生活を、ほかならぬ自分のものであると受け容れたうえで、今まで以上の力を漲らせて、それまでとは異なる人生を切り開いていこうというのである。こうした意味内容は、戸田さんの次のような言葉にも表れている。

「障害の受容は死と違う。御仏のままにというんじゃない。立ち上がって、なすんだから。決断と勇気がいりますよ。“まだ、娑婆でやるぞ”というのが障害の受容だと思いますよ」(戸田さん)
(p.19-20)
序章 第4節「絶望」から「希望」へ―「新しい自分」を見出す

 上記文中、「戸田さん」とは、1985年に脳卒中を発症した男性の仮名。

 もちろん、治らなくてもよい、治そうと思う努力は無駄だ、リハビリ不要論といった主張が発せられる背景にあるそうした主張をする人々のおかれた文脈や状況を鑑みれば、構築主義的な視座から身体障害が議論されることには一定の意義が認められる。運動として、差別に抵抗するものとして、障害とは社会的に構築されたものであり、ゆえに社会に問題を帰することはひとつの戦略である。そしてこの戦略は、社会的存在としての人が社会によって抑圧され、規定されていることに対する抵抗として成功してきた。

 しかし、こうした視座をあらかじめ設定すると、人々の内なる痛みや苦しみに十分な目配りがされにくくなってしまう。そして、病いを<生きる>という個々の人々によって異なる具体的な経験が、平坦で矮小化されたものになってしまう。

 本書で描き出したいのは、まさにこうした人々の現実の姿である。
(p.61-62)
第1章 病いを<生きる>という経験―経験と方法 第2節C 構築主義とその限界

 本書では、そうした人が<生きる>ということの全体を、①生命、②コミュニケーション、③身体、④家庭生活、⑤社会生活という5つの位相において捉えることにする。
(p.66)
第1章 病いを<生きる>という経験―経験と方法 第3節B <生>の全体性

ISBN:4902249227