おばあちゃんが、ぼけた。

 認知症介護でいろいろと本を書いている村瀬孝生さんの最新刊。ギャハハと笑って、ちょっと考える。「センター方式」はそりゃ、とりあえずの成果を標準的に出すには有効だろうが、やはり、個別の人の力なんだろうなぁと思う。力持ちじゃなくていいから、こうやって飽きずに考え続けてくれる人がそばにいることが、大事なんだろうなぁ、と思う。

 以下、数箇所抜粋。

 口から食べると人は本当に元気になるね。点滴や経管栄養(チューブを鼻の穴に挿入し胃に直接、栄養を流し込む)と、わけが違う。それはそうさ。口から食べることが自然の摂理だから。からだはそうつくられている。
 たとえば、台所では何やら炒める匂いがする。あれはお肉? それともお魚? ニンニクの香りが加わると、口の中でじわじわと唾がわいてくる。ごくりと唾を飲み込むとお腹が「ぐう〜」と鳴った。皿の上には柔らかそうなステーキ。やっぱりね! この匂いは肉だと思った。「いただきます」も待ちきれず思わず手が出る。「あーあ、やっぱりおいしいね」。食事とはこういうこと。
 匂いで鼻がくすぐられる。匂いによってめぐらされる想像は唾液の分泌を活発にする。飲み込まれる生唾は胃を刺激しからだはすっかり食べ物を受け入れる準備が整う。舌で受け止めた食感と味は「おいしい」という言葉に代わる、言葉は食事をともにした人たちとのあいだに「共感」を育み、喜びが増す。五感、脳、内臓、そして人との関係を総動員して「食べる」ことが「生きる」ことへとつながるのだ。
(p.72-73)

 さて、トメさんはなぜ、怒ったのか。改めて考えてみた。トメさんは自分で結果を出すことができなかった。そのことへの怒りであるように思う。つまり、あのお茶がこぼれるか否かという予測を立てていたのはぼくたちであって、トメさんではない。まだお茶をこぼしていないのに湯飲みを取り上げようとした。自分は結果を出していない。なのに他人から結果を予測され先手を打たれた。トメさんに限らず、「ぼけ」を抱えたお年寄りたちはそのことに抗っているように思えてならない。また、人の予測に導かれて生きていくことは、自分の存在意義すら見失わせる。
(p.112)

 ときおり高熱がフシさんを襲う。四十度を越える熱は激しい悪寒となってからだを「ガタガタ」とふるわせた。フシさん、われを見失って助けを求める。手を握ると少し落ち着きを取り戻した。主治医がかけつける。「点滴をしましょう」。看護師さんが注射器を手に取ると「生きるつもりでします」と腕を差し出すフシさん。
 二回目の高熱。主治医が飛んでくる。前回と同様に点滴を指示。注射針を腕に刺そうとしたそのときフシさんは暴れた。「わたくしを殺す気ですか」。いやがる姿を見て主治医はつぶやく。「しょうがないね、対処<私注:対症?>療法しかないね」。熱が出ると座薬を使用する。座薬はお尻の穴に入れる薬。解熱、鎮痛作用があって、飲み薬よりも効き目が早い。
 熱が出たときは安静にしたほうがいいだろう。ぼくたちはそう考えてみんなの集まる居間から少し離れた部屋にフシさんを連れていく。薬が効いて熱が下がるとフシさんはベットに腰掛けて居間のようすをうかがう。歌や笑い声のする居間が気になってしかたがない感じなんだ。忘れているんだね。さっきまで高熱にうなされ血が止まるほどの力で職員の手を握り、苦しんでいたことを。
 「ぼけることは決して悲しいことばかりではないのですね。あんなに苦しんでいても熱が下がるとケロッとしている。そしてみんなと一緒に唄って笑う。あの苦しみを短時間で忘れることができる。再び襲われるはずの高熱におびえないですむのですね」。ふだんと変わらぬフシさんを見て娘さんはそう言った。
 過去を忘れ、少し先の未来を予測できないフシさんは、「今」を生きている。その「今」をどう過ごすのか。それはぼくたちが「今」をどう生き、どう過ごすのかということにつながっている。
(p.133-136)

 「もう勘弁してください」。マサトさんは食事中にそう訴えた。少しでも多く食べてもらいたい。せっせとスプーンを口に運ぶ職員を制する言葉だった。それを境にマサトさんは食べようとはしなくなった。
 目を開けることもなく、静かに横たわる。主治医は脱水を心配した。点滴を勧める。娘さんはいやがった。「点滴をすると痰が出るのではないか」。そう心配したからだ。悩んだはてに点滴することに。すると三十分が経過したあたりからマサトさんのようすに変化が。喉のあたりからゴロゴロと音がする。それまで静かに呼吸していたのに。ゴロゴロはしだいにひどくなる。痰がからんでいる。
 痰はマサトさんの気道をふさぎはじめる。痰を吐き出すだけの肺活量はすでになく、もがき苦しむ。ぼくたちは背中をさする、叩く。妻はマサトさんの手を握り語りかける。「わたしはあんたに助けられたよ。あんたは利口だったからね。あんたが利口でわたしがばかだったから、わたしはずいぶんと助けられたよ」。
 幸運なことに、痰は気道を完全にふさがなかった。徐々にマサトさんの呼吸は落ち着きを取り戻した。痰と点滴の因果関係を知ることはできない。けれど、娘さんは「点滴はもうしない」と決めた。ぼくたちも娘さんの判断は正しいと思えた。
 マサトさんは死にゆく人なのだ。自分の力で食べ物を噛みくだき飲み込むことができない。水すらも飲み込めない。からだと内臓は体内に残されたエネルギーと水分だけで保たれるように準備を始める。「治す」ことだけを目的とした医療行為はときに死を迎えようとするからだの準備を邪魔しているのではないか。
 点滴の注射針は血管に直接入り込み、体液と同じ水分を流し込む。腸を通して吸収されない水分は弱った心臓へと一気に運び込まれる。心臓は必死でポンプの役割を果たそうとする。血圧は上昇し脈は速くなる。脈が速くなると呼吸も乱れ始める。寝ながら全力で走っている状態になる。そして吸収し排泄するという循環機能の低下したからだに薬が投与される。もしくは尿道から膀胱へと管を入れてオシッコを強制的にぬく。娘さんはマサトさんにそんな医療行為をしたくないと決心したのだ。
(p.141-143)

 聖隷三方原のチームが、がん最末期の身体状態についてどこかで論文を書いていた覚えが・・・。ここで脱水を心配する医者が点滴をしようとするのは普通の選択だが、その点滴の適量が、一週間前、三日前といった時期になったら考えるべきなのだろう。けれども、その適量とはどのぐらいかというエビデンスが確か、まだなかったのでは? 口渇に対しても標準的なノウハウはまだないはず。点滴をするとキツイから、という理由で点滴をしない、つまり「治療不開始」(「治療」ということにはがん最末期の場合、違和感があるわけだが、ならあ「ケア不開始」とでも言うか・・・)というのはどうなんだろう???と思う。不具合があるのならその量をどうしたらいいか、もっと研究したらいいのでは? 不具合が起こるからやらない、っていうのは、どうなんだろう???と思う。終末期ケアについては、疼痛緩和はもちろん大事だと思うけれども、もっともっと基本的な生理的苦痛を和らげる方法についてもちゃんと研究されなくてはならない。

おばあちゃんが、ぼけた。
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