038:ゆびさきの宇宙

ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて
ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて生井 久美子

岩波書店 2009-04
売り上げランキング : 9652

おすすめ平均 star
star胸がふるえました
star“一石三鳥”の「傑作」

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
ASIN:400025409X

 福島智さんのこれまでの半生を書いたルポルタージュ。今月のメイン本でした。久々に胸を打つノンフィクションでありました。

 障害者にとってこの世界はいったいどんなものなのだろうとか、そういうことももちろん考えるわけですが、なんかもうわたしは気がつけば「考える行為」を途中から放棄して読んでいました。生きなくちゃいけない、と強く感じたのであります。わたしなどがこんなことを書くと、寒いというか痛いというか……いやはやなのではありますが、正直が取り柄ですから書きますけど、生きなければなりません。「存在することの価値を確信する必要」について、福島さんは繰り返し語っておられます。わたしはそこから勇気をもらったの。

 著者の生井さんの誠実さにも打たれました。福島さんの言葉がとても丁寧に引用されています。非常に大事な言葉を、ほんとうによく考えて選んで引用されたのだろうと思います。安易な省略のない、素晴らしいお仕事だと思いました。わたしも、こんな気持ちで一つひとつの仕事に臨もうと思います。

 とにかく会う人ごとに「この本、いいよ!」と言いまくって、今まで知っている限りではわたし、2冊売りました。勝手に宣伝してます。読んで☆

 以下、印象に残った箇所のメモ。

「・・・・会話も限られた言葉のやりとり、大切なのは「自発会話」です。質問への答え、とくに「はい」「いいえ」などではなく、その人が自分から何をいうか。これで、相手がコミュニケーションに求めている度合いを、無意識に計測できます。
 言葉以外には、情報がないもの。
 なめらかな、代替可能な発話には興味がないんです。他に代えようのない、その人の後には誰もいない、突き刺さる、ひっかかる発言にひかれます」
(p15)

↑言葉とコミュニケーションについての、福島さんの言。

 「・・・・盲ろうになって初期の一、二年、沈黙に対する抵抗力が弱かった。そんな最も苦しいときに支え、生きる土台をつくってくれた。
 まず存在への肯定。コミュニケーションしようと思えばできるという安心感。無条件の肯定、承認は重要です。理念だけではやっていけない。支援の実践があれば、盲ろうの孤立や苦悩が理解され、共感されているとわかる。必要なときは支えられる安心がある。
(p111-112)

↑最初の恋人についての、福島さんの言。

 だが、そもそも「障害」とは何かがはっきりしない。
「病気やけがなどで、心身の機能になにがしかの影響をうけてそれが治癒せず、症状などが固定したものの一部を、障害と呼ぶのですが、どんな症状でも障害と呼ばれるわけではない。たとえば、円形脱毛症が固定しても、少なくともいまの日本では障害者とはいわない。ここで、では何が障害であり、障害者なのか、こうした問いをもつことはすでに、障害学の思索を初めていることになるんですよ」と福島はいう。
 つまり、障害は人工的な概念で、その本質は「社会によってつくられ、再生産される状態や上京、関係性そのものなのだ」というのだ。そして、それが現実には、差別や排除の対象になっている。これは福島が、これまでの人生で実感してきたことでもある。
(p169)

↑障害学、バリアフリー分野、について。

「「自分のつくった物が自分のものだ」ということには何ら論理的根拠はなく、ただそのように人々が信じたいと思っているからで、一種の信仰にすぎない。自分がつくった物をだれかに譲渡したり、人がつくった物をもらったりしても何ら悪いことではなく、いいか悪いかは証明不能。立岩は私的所有論で、ぐねぐねと考えながら、そういうことはいえるな、ともっていってる。
 それがいえれば、能力がないとされている人が生きるために資源配分されるのは当然だと、道徳的ではなく、論理的に示すことができる。立岩は、同情や道徳でなく、もっと単純に考えたらいいでしょう、といっている」
(p172)

↑立岩さんの『私的所有論』について、福島さんの言。

盲ろう者は、コミュニケーションが遅いし、ゆっくりしている。労働生産性は低い。でも生きていることは事実で、コミュニケーションや労働生産性で説明できない何かが生まれている。
 がんばれば普通のようにできるという幻想を描けない人が生きていることが、理論と現実をつなぐ上での「橋渡し」の役割を担うのではないか」
(p173)

↑理論の実現のために障害者には何ができるか、について福島さんの言。

「もし、人間に遺伝子や染色体レベルでの「異常」と呼ばれる突然変異がなければ、人類の多様性や、環境の激変に適応してきたかつての進化のプロセスは存在しただろうか。もしかすると、たとえば、ダウン症などの先天性の障害の存在は、人類の遺伝子レベルの多様性を育んだ進化の象徴ではないか、と。
 そして、「障害」とは、人類の発生と進化にとって、最初から必然的にプログラムされていたファクターなのではないか、という感覚を抱くんです。この感覚は、おそらく多くの人が持っているであろう素朴な感覚、つまり、障害のある人を排除する社会への違和感、障害者を「のけもの」にする態度への忌避感のようなものともつながっているのかもしれない。
 さらにいえば、遺伝子や染色体レベルの突然変異が原因で生じる病や障害を否定するなら、それはそのまま自らの存立基盤を否定することであり、そして人間そのものの発生の基盤の否定にもつながることにもなりかねない、と私たちはどこかで感じているのではないか、ということです」
(p180-181)

↑人類と進化とバリアフリーについての、福島さんの言。

 「「正義論」では能力をプールして分配すればよいとされた。しかし、それだけでは私は不十分だと思う。石油やガソリンをプールするように、生産能力を所得などの財に量的に変換・換算・再分配するだけでは、社会はうまくまわっていかないのではないか。人はもっと質的な何かを求めているのではないか。たとえば、それは、みなで一緒にやっていけるような関係性やコミュニケーションの豊かさではないか、と。・・・」
(p185)

バリアフリー論の今後の展開について、福島さんの言。

 「福島さんが適応障害になったのは必然的だったと思います。どこへ行っても一人でみんなを感動させ、テレビドラマや漫画の主人公になって……これでは、どんなに素晴らしい人でも息が抜けないし、一人では迷う。福島さんは欲張りすぎ。私は「障害者のヒーローになろうだなんて、実態はもっとセコイふつうの人間なんだから、もっと気楽に、もっと自分を大事にして」といっています。・・・」
(p188)

↑博士論文主査の児玉先生の言。

――「自立」とは何か。どう考えますか。
「いくつかのいい方がありますが、たとえば「自分の財布と相談して、今日の晩飯を何にするか自分で決め、デートの誘いができること」と私はこれまでよくいってきました。
 入所施設でメニューが決まっているのは管理統制の象徴だし、デートは人との出会いがなければできない。(外出なども)人の手助けをうけながら、自分の生活を自分で決めることですね。
 ただし、自己決定すること自体が難しい人もいるので、ある場面では、それが抑圧的なことになる。本来、自立とは一人の人間としての存在そのものなので、生きていること自体が自立、ともいえますね。
 ただしこれは、生存への応援ととるか、ある学生は「生きていればいい」といわれるのは、重度障害の子どもにとっては残酷だといった。「生物学的に生きていればいい」と曲解されるとほったらかしにされてしまう。少しでも快適に暮らせるようなサポートをするのは当然で、文脈によって同じ表現でも意味あいが違う。経済的な自立も大事だし、パチッと定義しづらいですね。
 ただ、生きていないと、自立も、共存もできないので、最低限生きていることが大事。
 自立は、おそらく他者の存在がないとありえない概念。「真空」のような状態の中でただ一人生きているわけではなく、他者がいるから自分もいる。つまり、実は他者がいないと自立はない。自分だけがただ一人でいるのは、存在していないのと同じなんです」
(p201-202)

↑「自立」について、福島さんの言。この後に続く、著者の生井さんとのやりとりもすごく良い。続きはこの本で確かめてください(と、また宣伝w)。