『分裂病/強迫症/精神病院 中井久夫共著論集』

 敬愛する中井久夫氏、神戸大学退官時の共著論文集。
 主に統合失調症への関心からこの本を手にとり、1本目の「精神分裂病の回復遷延例とその回復律速要因について」を興味深く読み、それでもうこの本を手にとった目的の8割は遂げた気がして、さて本棚へ置きにいこうかと思いつつも、つい2本目の「強迫神経症患者の全生活の縦断的研究〜特にその回復過程の顕在化をめぐって〜」の要約を読んでしまったらもういけなかった。圧倒的な症例報告に息をのみつつ読み進む。

 正直、これまで強迫神経症に対してはあまり共感がもてずにいた(はっきり言えば、嫌いな人種だと思ってた)のだが、中井氏のこの報告を読み、見方がぐるりと変わった。共感とまではいかないが、感情的に巻き込まれずに病の一つとして理解できるのではないか、患者の心象風景を想像してみることもできるのではないか、と思えるようになった。

 この第2論文のまとめの部分に興味深い記述があったので、引用する。この論文で症例報告がされている強迫症9例の中に、歯磨きに固執する患者がいた。それに触れた段落である。

 なぜ、歯であるかという「症状選択」問題は思弁以上を出ることが難しいのであるが、精神分析学によれば、歯の器官言語は噛みつき、捉え、保持するcaptative-retentiveということになり、たしかに歯の萌生によって幼児期は乳房を純粋に吸うことができなくなり、吸うことが同時に母を噛むことになり、最初の攻撃体験を持つ。もっとも、歯は、同じ権利で、咀嚼の象徴でもありうる。すなわち、体験を咀嚼しがたい場合に、その表現として歯に関する訴えが起こるということも言いうるとわれわれは思う。経験的にも、心身症患者に歯科の占める割合は多く、しかも特徴的に、その経歴が異常なほど事件と有為転変に富み、「波乱万丈」である(神戸大学医学部口腔外科教授・島田桂吉、私信)。(p.123) 

 わたしにもうつ病当時、歯が異常なほど気になった時期があった。舌で歯の並びを常に確認する行為をやめられなかったことが誘因となって、急性、激烈な顎関節症を起こして大っきらいな歯医者へやむなく通ったものである。あ〜、あの痛みを思い出したよ(泣)。

 強迫症についての論文の終わりのほうに、中井研究班の立場が書かれている。

 われわれは、方法の項に記したように、1つの治療論、特に1つの治療段階論に立って治療を行っている。以下に述べる考察もこの段階論と無関係ではありえない。おそらく、これは循環論法ではないかという批判がありうるであろう。しかし、実験科学においてはともかく、フィールドの学としての臨床精神医学においては、実際には、先駆的に治療段階論が存在して治療があるのではない。たとえば、睡眠の重視は睡眠障害を持つ強迫症患者の治療をとおして生まれたものである。その他も全く同じである。
 症状中心期、感情表出期、生活拡大期という常識的な順序は、何も強迫症の治療に限らない。おそらく、精神科疾患に限らないであろう。ただ、強迫神経症を示す患者を生活障害として捉えることが、この段階論の前提となっていることだけを述べておきたい。(p.129)

 ここには、臨床において、精神医療とはどうであるべきかという姿勢が書かれてあるのであって、忘れてはいけない視点だと思う。

 また、強迫症の症例には、血圧や体重といった西洋医学的な身体診察結果に加え、脈や舌の様子など中国医学の身体所見もいろいろと記述されている。精神医学の論文にこれほど詳細な身体診察の経過報告がされることは珍しい。それはなぜか、といったことも以下の部分に書かれている。

 身体診察は、そもそも、睡眠の重視とともに精神医学における重要な一面であるが、いずれもやや軽視されている嫌いがある。前夜不眠の患者に深い面接を治療者からしかけないことも、入室時の頻脈が治まるまで診察を待つのも、初歩的であるが重要な注意点である。さらに身体診察は、一般患者にも、そして強迫症患者においては特に、医師が当然なすべき行為であると観察されている。われわれは、視診、脈診、舌診、聞診(嗅覚による診察)、時に血圧測定と眼底検査とを行っているが、この選択の理由は第1に精神医学的診察において身体診察に割く時間が限られており、その時間内において得られる情報が大きいからであり、第2に精神神経内分泌免疫相関に関する定量的ではないが重要な情報だからである。(中略)中医学的には、弱い「虚証」すなわち心身医学の用語では穏やかなtrophotropismが存在する場合にはその状態の解消が治癒の進行を示唆する。視診においては皮膚や髪の毛や爪の艶の回復が第2段階において出現するのが、確実な治癒進行の指標である。(p.133)

 この論文によれば、強迫症(には限らずか……)の場合、治癒への段階を1つ経るたびに反作用的な症状が出る。それについて書いたところに、ちらっとなぜ強迫神経症患者が医者に嫌われるのかも書いてあったりする。なんでこういうところにわざわざ着目しちゃったりするんだろう、わたし(笑)。

 もう1つの反作用は行動化であるが、私たちの例においては建設的なものが多く、それもひそかに始めている場合が多い。強迫症の治療を多くの精神科医が歓迎しないのは、患者が症状を訴えてやまず、治療を強要するかにみえて、本人は全然変わろうとしないという2つの矛盾したメッセージを同時に面接者に向けて放つ点が大きいと思われるが、実際には、彼ら彼女らは、面接において依然症状中心的であっても、行動にはすでに何かが始まっていることが多い。通常、精神科医は、行動を着実に治療者に報告することを患者に求めるものであるが、強迫症の場合、「きちんと報告する」ということは強迫的側面の一部である。報告を一般原則としながらも、治療者は、時に、「患者に出し抜かれる」ことを覚悟し、面白がる余裕が重要である。あるいは、強迫症に限らず、治癒というものの萌芽はひそやかに、眼にとまらないところから始まるものかもしれない。(p.134)

 「治癒というものの萌芽はひそやかに」――あぁ、いい表現だ。。。

 さて、わたしがこの本の中で最も感動したのは、3本目の論文「長期経過における超短期挿間」という、ある統合失調症の青年についての報告だった。
 大学1年生の5月に発症し、いったん寛解したものの、3年後に再発。その後、超短期挿間とここで呼ばれている、数時間単位でのさまざまな失調症状が現れ、それが自死に至るまで続いた。発症から自死までの経過が非常に細かく記述されている。それはまるで贖罪のように。

 最後の8月10日には患者は「現象の消失」を告げ、睡眠はよく、夢も大したことはないと語った。治療者はいくぶんいぶかりながらも、彼にとってリスクの高い季節が過ぎたことを考えに入れて、それをそのまま受け取った(ただ病歴には「症状消えても浮かぬ顔」と注記されている)。15分後、待合室で治療者をつかまえて「症状全部再発しました」と言った。治療者は外来に備えてある2病床の1つに寝かせ、診察中の患者を終えてから診察することにした。しかし、行ってみると、患者は帰宅してしまっていた。その後の4日のことはわかっていない。おそらく、患者に訪れたこの静穏期は嵐の前触れであって、その予感のもとに患者は自死を選んだと思われる。決して衝動的な行為ではなく、日曜日、鉄道を乗り換えて、近郊ではもっとも美しいとされる峡谷の緑したたる中への朝日の中での跳躍死であった。(p.163)

 この論文は、神戸大で診察に当たっていた中井久夫氏と、時にその代診を務めることのあった永安朋子氏、高宜良氏の3人の共著となっている。結びは以下のとおり。

 新鮮なモザイク例は、一般に非妄想型であるという印象を持っている。かつて中井は非妄想型(主に破瓜型)の時間が瞬間、瞬間への断裂傾向があることを述べたが、具体的にはこのような突変性が問題であるのかもしれない。「突変性」は、症状の内容と顕在度とを超えて独自の危機を構成することをわれわれはもっと知るべきであろう。ひょっとすると、はるかに多くの患者において「突変性」が問題であるのだが、それをモニターし、報告する患者が少ないのかもしれない。(中略)多くの患者は「突変性」のただなすがままになって、医師も周囲もそれを知らないだけかもしれない。
 なお、本例の診療責任はすべて筆頭報告者にある。(p.167)

 筆頭は、中井氏であった。亡くなった青年に合掌。

 最後の論文は、「精神病院における沈澱現象とその動態:兵庫県一地域における定量的研究」と題されたもので、精神病院に長期入院患者が増加していることで、入院治療に対する病院の供給能力が低下していることを、綿密なデータ収集から「有効病床指数」を割り出し、定量化して示すという労作だった。

 医療行政のあり方、退院患者を迎える社会のあり方、病院経営のあり方、あるいは時にマスコミの動向も、精神医療の健全化を阻む要因となっている。それをほぼ数字のみで指し示したこの論文の意義は大きいと思う。

分裂病/強迫症/精神病院―中井久夫共著論集
中井 久夫
星和書店 (2000/11)
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ISBN:4791104269