自己決定と尊厳死

◆「内田樹さんインタビュー:驚くけれど、驚かない生き方を身につけよう」
内田樹さんがフェミニズムを批判しつつ、自らの人生を語っています。

 とあったので、さっそくそのホームページへ。内田樹さんへの2003年のインタビュー記事だ。
 フェミニズム批判とやらは、わたし、あまり関心がもてず。というのも、批判というほどのものには読めんかったので。それよりピピっと反応してしまったのは、次の箇所だった。

──ところで、上昇志向もなく、社会にあまり関わらない世代が登場していると指摘されていますが、その一方で自己決定という言葉が昨今飛び交っています。

 自己決定はアメリカから輸入された概念だと思います。アメリカというのは、それがどういう選択であれ、「自己決定した」ということだけで、それには価値があるとみなす文化的な風土があります。
 いい例がインフォームド・コンセントです。いくつか治療のオプションがあって「どれがいいですか」と医者が尋ね、患者が自己決定して「この治療法にします」と決断する。医者に比べて、患者の方が圧倒的に医療知識が不足しているにもかかわらず、簡単な説明をしただけで治療法を選ばせる。このような治療法が有効なのは、「正しい決定をする」ことより、「自己決定をした」ことに価値があるからです。「医者に勧められた適切な治療法」よりも「自分で選んだ不適切な治療法」の方が治癒効果が現にあるのです。アメリカみたいな社会ではね。それはあの国では「自己決定すること」に法外な価値が賦与されているからです。ある意味、倒錯してますよね。でも、倒錯してようが何だろうが、治ったもん勝ちですから、アメリカではインフォームド・コンセントでいいのです。ただ、同じことが日本でも通用するかどうかというと、私は疑問ですね。

 自己決定がアメリカから輸入された概念だ、それはそう、確かにそうです。けれど、「同じことが日本でも通用するかどうかというと、私は疑問ですね」という言に、どれほどの含意があるのか、たったこれだけの表現からは推測することしかできないが、(だからわたしがこれから言おうとしていることもここに含まれているのかもしれないが)この記事には一つ大事な視点が抜けていると思うので、書いておきたい。
 日本で「インフォームド・コンセント」といった場合に、患者の側が期待していることは、必ずしも「自分で決めること」ではないのではないかという思いがある。それじゃ何を求めているのか。自分の身体について「知ること」なのではないか。まず、知りたいという気持ちが先行しているのではないかと思うのである。
 医療はこれまで分厚いカーテンに仕切られた向こう側で執り行われてきた。患者は自分の身体といえども、知ることをなかなか許されなかった。長らく医療専門職は人の生死に携わる聖職とされ、その知識と技術の、時には仁という言葉で表される人性においてさえも深淵さを崇められる立場にあり、素人である患者が1対1の個人として向き合えるような存在ではなかった。
 それがどのような誤謬に基づく人間関係であろうと、医療側としては患者のコンセンサスを特に得る必要もなく処置を進めることができるなら、そのほうが一手間減って楽だったのであり、患者としても、「先生にお任せ」しておけば治るのであればそれでよしとする時代が、ずいぶん長く続いたのだった。医療側と患者とを分け隔てていた分厚いカーテンは、医療側から一方的に引かれたものではなかった。患者もまた、カーテンに隔てられることをよしとしていたのである。
 今、医療専門職は、知識と技術を持った「人」として患者と向き合うことを求められている。神ではなく人である。医師を見て患者は思う。こいつも自分と同じ人間であると。同じ人間だが、医療についての知恵がある。君が専門職として診たわたしはどのような身体状況を呈しているのか、それを教えてくれと思う。そしてどのような選択肢が自分にあるのか、それぞれの選択肢に伴うリスクは何、メリットは何ということをつぶさに教えてほしいと願うのである。そのように願うのは選びたいからではないのではないか。知りたいという、もっとシンプルな欲求なのではないか。知れば選べるというものではないことぐらい、おそらくほとんどの患者にはわかっていると思うのである。
 今の日本において、インフォームド・コンセントと自己決定を直接に結び付けて考えるのは危険だと思う。

 同じく、内田樹のインタビューから。上の発言に続く言。

──グローバルスタンダードに則った社会では、そうした自己決定を常に迫られるという印象があります。

 自己決定という言葉だけがひとり歩きしてませんかね。
 ある学生が「就職するか、進学するか、結婚するか、私の選択肢は三つしかないんですが、どうしましょう?」と相談されてびっくりしました。「おまえの人生は三択かよ」って。
 問題をクリアーに整理することで、逆に自分で設定した問い以外にも無数の選択肢が存在するということが見えなくなっている。「自己決定」に急なあまり、「どのような選択肢がありうるのか」というずっと大切な問いが問われないで済まされている。
 「就職」といっても、学生たちの想像するのは淀屋橋のオフィス街にある一部上場企業に勤めることだけ。近所の乾物屋とか漁師とか木こりとか刀鍛冶とかは絶対に就職の選択肢に入ってこない。
 選択肢が三つあり、その中から自己決定する、という「かたち」だけがあって、それ以外の無限の選択肢があるということには考えが及ばない。危険な発想だと思いますね。

 これを読んで思い出されたのは、尊厳死をめぐる状況だ。
 日本尊厳死協会のホームページには次のように記されている。

[日本尊厳死協会の設立目的]
The purpose of JSDD's foundation.
 日本尊厳死協会は、1976年1月に産婦人科医師で、国会議員であった故太田典礼氏を中心に医師、法律家、学者、政治家などの同志が集まって設立されました。 その目的は、自分の傷病が今の医学では治る見込みがなく、死が迫ってきたときに、自ら「死のありかたを選ぶ権利」を持ち、そしてその権利を社会に認めてもらおうというものです。つまり、尊厳死運動とは、人権確立の運動なのです。


[リビング・ウイルを知っていますか]
Do you know what the "Living Will" be?
 日本尊厳死協会は、治る見込みのない病気にかかり、死期が迫ったときに「尊厳死の宣言書」(リビング・ウイル)を医師に提示して、人間らしく安らかに、自然な死をとげる権利を確立する運動を展開しております。
 リビング・ウイルとは、自然な死を求めるために自発的意思で明示した「生前発効の遺言書」です。その主な内容は
○不治かつ末期になった場合、無意味な延命措置を拒否する
○苦痛を最大限に和らげる治療をしてほしい
植物状態に陥った場合、生命維持措置をとりやめてください
というものです。
 日本尊厳死協会ではこのリビング・ウイルを発行しており、入会希望者はこの書面に署名・押印し、それを登録・保管しております。登録手続きが完了すると会員証と証明済みのリビング・ウイルのコピーをお渡しいたします。

 尊厳死を望み、実行してもらうことは人権なのだと書かれている。「人間らしく安らかに、自然な死をとげるための権利」という文脈で語られると、“リベラル”な老人たちは、あるいはリベラルな老人に見られたい人たちや、老人でありながらもリベラルであると思われたい人たちにとっては、尊厳死を支持することがすなわち社会の中での自分の立ち位置を明確にすることにつながる。誰もが、物分りのいい老人でありたい。そう思う限り、尊厳死はリベラルな老人の間で流行りの思想としてもてはやされるだろう。しかしそれは、社会的存在としての自分、つまりこの社会に生きている自分により付加価値を与えるための、ただそれだけのための権利の主張なのかもしれない、ということをよく考えたほうがいい。
 内田樹さんが言っている「おまえの人生は三択かよ」と同じで、尊厳死も、死をいかにして受容するかという極めて個人的な主題を、社会的に一定の形に押し込めてしまうという非常に大きな危険を孕んでいる。この危険性に言及しないまま尊厳死法案が国会を通るような事態が起こるのを、ただ傍観していてはいけないのではないかと思う。
 ふつうに考えてみたい。もっとシンプルに考えてみたい。たとえば自分ががんに罹り余命6ヵ月と医師から申し渡されたら、どのように死にたいと思うだろうか、と。健康な今は、管を何本もつながれて延命されるのはたまらない、わたしが望む尊厳死というのは医療を介さない自然な死だと、強く思う人がいるかもしれない。けれども、実際にがん闘病6ヵ月を経るうちにはきっと、「わたし」の考えは二転三転するだろう。今の「わたし」が、いつかその時の「わたし」と同じだとは思わないほうがいい。いよいよ死期が迫ってきたら、いったいわたしはどんな風にあがくものだろうかと楽しみにしているぐらいがいい。
 たとえば、がん末期に至り、抑うつ状態に陥って(がん末期の抑うつ状態、あるいはうつ病というのはしばしば見られるケースである)服薬自殺を図る(アスピリンを4箱買ってきてもらえば死ねるのだ)とも限らない。そのとき、この患者さんはリビングウィルにサインしてますから延命処置は要らないんです、と胃洗浄もしてもらえないということになったら? あなたは抑うつ状態のなせる自殺行為によって命を落とすことを良しとするだろうか?
 自分がいつどんな状況でも一つの信念を貫きとおせると自らを恃むのは、ちっとも立派なことではなくて、ただの傲慢だと思う。
 尊厳死協会はその昔、安楽死協会という名称だったのだということも、ここで思い出しておきたい。安らかな死に導く(つまり殺人だ)ことが(死にゆく人の権利としての)尊厳ある死という言葉に置き換えられた。尊厳死という言葉の源にどのような思想があったのか。
 また、リベラルぶりたい国民を尊厳死法案によって煽動して、国はほんとうのところ何をやろうとしているのかを見極める目も持っていたい。たとえばそうやって削った医療費は何に使われるのか? 
 とにもかくにも、、、、多くの人が、自分の死に方は自己決定できると感じているらしいこの状況に対して、わたしは大きな違和感を覚えずにはいられません。